非 日常

 主任に呼ばれた時から嫌な感じはしていた。
「どう、最近」
 バックヤードの、会議室というか、倉庫のようなところで、私たちは向かい合っていた。机と呼ぶのもちゃちな代物で、手で触れると油のような何かでギトギトしていた。私は持っていたウェットティッシュで縁まできれいに拭きながら、「なんとか」と、短く答えた。
「この前さ、ワタルくんが笹岡さんのディスプレイ褒めてたよ。惣菜の売り上げ上がったんじゃないかな」
 私はぼんやり主任の口元の無精ひげを眺めながら聞いていた。主任はもともと体毛が薄い方だったが、髭はそれに似合わず毎日しっかりと生えてきているようで、夕方になると青々と雑草のように育っていた。
「でさ、この前ちょっと、お客様アンケートに書かれてたんだけどさ」
 私は身構え、うつむいた。緊張すると私は咳払いが出てしまうのだが、今は必死に我慢した。上目遣いで、主任を見る。
「俺は何とも思わないんだけどさ、ほら、客商売だから」主任の口角には泡が溜まり、それが飛沫してきっと机に飛んでいるのだろうが、さすがに私はそれを拭くことはしなかった。「やっぱり、笹岡さんのそれ、気にしちゃう人もいるわけよ。もうほら、あれは終わったわけじゃん。なのにさ、それしてるとさ、この店は大丈夫なのか、みたいな」
 私は、「ちがう」と口だけ動かす。主任に私の口元は見えない。あれは終わっていない。ワクチンができたって、天然痘のように根絶できたわけじゃない。今は身を潜めているだけなのだ。「ちがう」と私は口だけ動かす。誰にも私の口は見えない。
「だけど、何ていうの、コンプライアンス的に? 俺の方から笹岡さんの方に強制はできないわけ。だから、この話は、お願いというか、相談、みたいな感じ」
 コンプライアンスの使い方が違うと思ったが、今度は口を動かすこともしない。代わりに少しだけ微笑んでみせる。たぶん、微笑んだと認識されたのだろう、主任もつられて笑う。笑うというより、唇の端をちょこっとあげる。
「で、どうかな」
 一向に私が話を続けないので、主任はしびれを切らして口を開く。私は少し息を吸い、「考えてみます」と言う。主任は聞こえなかったのか、「え?」と困った顔をする。今度はもう少し大きい声で「考えます」と言った。
「そっか、そう」主任は少しだけ、ほんの少しだけ安心した顔をした。「考えておいてよ、考えるのは大事だからさ」
 主任は席をたった。私は彼の後姿が見えなくなるまで座っていた。背中というより、主任の臀部を見ながら、「考える」猶予はどれぐらいあるのだろうと考えた。それまでに私は何かを決めることなどできるのだろうか。私はため息をついた。息が湿気を帯びて私の口にまとわりつき、不快だった。
 
 帰り道、いつもの路地裏に寄る。ピーコは私の姿を見ると、勢いよく尻尾を振った。
 店のバックヤードの、惣菜をつくるキッチンのすぐ裏にあるゴミ捨て場にはネズミがいて、駆除用の団子を撒いているためか、死骸となって時々転がっている。私はそれを仕事が終わると、こっそり探して、新聞紙とゴミ袋に詰め込んで持ち出す。そして、ピーコにあげている。初めはバッタかなんかで満足していたピーコも今は大きくなり、餌の調達には苦労していた。
 ピーコは私の持ってきたネズミの死骸を、頭から順番にきれいに食べた。そして、いつものように尻尾だけ残した。しばらくその尻尾を口にくわえ、ぶるんぶるんと回して遊び、飽きると遠くへ放り投げた。私はそんなピーコをにこにこしながら見る。でも、触ることはない。ピーコも、触られることは望んでいない。私にはわかる。
 このままピーコがどのぐらい大きくなるのか、私には見当がつかなかった。このままここにい続けてくれるかどうかも、私はわからなかった。ピーコの小さな羽は、飛ぶのには適さないようには見えたが、次の瞬間には空高く消えていってしまっても、不思議ではなかった。
 また明日。私は思う。また明日ここに来て、もしピーコがいなかったら、主任に返事をしよう。もしまだいたら。そこまで考えて、私は自分がどちらを望んでいるのか、わからなくなった。ピーコは昆虫みたいな目で私を見つめる。ピーコの視線が私に届くその少しの距離の間に、私は背中を向け、歩み去る。また明日。私は思う。

〈了〉

☺このまえ冷凍ネズミをアマゾンで見ました。何でも売ってるんですね。