マスクの木

 電話を終えた後、珍しく夫が「どうした?」と声をかけてきた。私は短く逡巡し、「母親からだったんだけど」と切り出した。
「マスクの木を買ったっていうの」
 テレビを見ていた夫は、私の方へぐるりと頭を向けた。いろいろ聞きたいことはあったのだろうが、とりあえず聞いたのは「いくら?」で、値段のことだった。
「十万」
 十万か、と夫は呻いた。テレビに向き直り、坂上忍が叫んでいる映像を切ると、十万か、ともう一度呻いた。
「何の木だって?」
「マスクの木」
 口にした私も、何か間違って変なものを食べてしまったような気がした。マスクの木? 夫もその言葉を口の中で転がし、思ったよりも珍妙な味だったようで、冷たく低く笑った。この人はいつからこんな笑い方をするようになったのだろう、と私は、携帯電話を強く握りしめていることに気が付いた。
「マスクが生るのか」
 訝しそうに夫はまだその言葉の味を試している。「それは白いのか」
「知らないけど」
 母の話は要領を得なかったので、翌日に私が見に行くことになった。
「あゆくんみたいに優しくってねえ」
 母は私の弟の名前を言った。話によれば、販売に来た青年はお金に困っていたようだったので、変な話だとは思ったけれど、助けてあげる気持ちで支払った、と母は言った。
「マスクの木なんてねえ、そんなもの、あるわけないと、そりゃ思うたけどもさ」
 そうねと私は言って、マスクの木を見た。母は妙なところで自分の考えを取り繕うとするので、話の全貌を理解するのには骨が折れた。お金に困ってた云々は、日が経って自分のしでかしたことに気恥ずかしくなった言い訳であろう。いずれにせよ、その「あゆくん」似の青年に優しく声をかけられて、舞い上がってしまったということなのはよくわかった。
 マスクの木は、どうもマスクの木ではないようだった。何か柑橘系の木のようで、背丈は思ったよりも高くはなく、家の中に鉢植えとして置いてもよさそうであった。横文字の会社名がプリントされた説明書には、「果実から出る殺菌成分がマスクの代わりになります!」と堂々と書いてあった。
「ほら、マスク、手に入りにくいじゃない。だから代わりになるじゃない」
 じゃあこの木をいつも背負って歩くのか、あるいは実がなるまで何か月も待たされている間はどうするのか、だったらミカンとかレモンとか買ってきた方が安かろうよとか、とりあえず色々言いたいことはあったが、結局私は「そうね」と小声で呟くだけで、くちゃくちゃと何か噛むようにしゃべる母の口元を見るだけだった。
「でもお母さん、来月から入居するじゃない。どうするのよ」
 この状況下で、施設への入居は危ぶまれたが、予定通りに事が進んでいたので、私としてはほっとしていた。ほっとしすぎて少しガードが甘くなってしまったことは反省している。反省したところで、目の前の木はなくならないし、お金は戻らないし、何かを元通りにしようと思うと、それ以上の労力が必要になるのは経験則だ。母はそれには答えず、あゆくんに似てねえ、とまた言った。
 結局、私はマスクの木を車に積んで持って帰ってきた。家のベランダに置き、しばらく眺めていると、休校中の息子が、珍しそうに寄ってきた。「マスクの木」と言葉にすると、私が不機嫌になるのを知っているので、ああこれがあれね、などと言いながら、葉っぱやつぼみをぺたぺた触った。「うん、なんかいい香りがする」息子が言う。「気がする」
「外にも出ないのに」
 私は息子をどかし、じょうろで水をやった。「どうしてこんなもの買ったのかしらね」
「でもおばあちゃん、言ってたよ」
 思い出したように息子は言った。「この前会った時、ほら、転んじゃって起き上がれなくなったとき。マスクはあるのかって。心配してたよ。マスクがなきゃ、お前たちも外に出られないから大変だろうって」
 私は、子供のままの弟の顔を思い浮かべた。それから息子の顔を眺め、ぽんぽんと頭を叩いた。なんだそりゃ、と息子は照れ臭そうに笑い、また葉っぱを撫でた。
 それから、マスクの木は花を咲かせた。白い花だ。私はその花に口元を近づける。香りは甘く酸っぱい、気がした。

〈了〉

☺マスクはまだ箱買いするのにためらってしまう値段です。