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さかさ近況㉓

創元落ちたよ

 はじめて最終選考まで残ったのだが力及ばず…阿部登龍さん、おめでとうございます。改名のしかたがかっこいいし、それで結果も残すのもかっこいい。私も改名するといいのかもしれない。坂崎びしょびしょ飲み飲みマンとか。
 自作は自分で言うのもなんだけど、かなりよくできた小説であるとは思う。事前に受賞の言葉を下書きするぐらいには自信があった。戦中の日本が舞台なのだけれど、SFのギミックも用語も使わずに、SFめいた物語を書けるか、という挑戦の物語であり、けっこうバシっとはまって書けた手ごたえはあった。改稿もよくできたと思うんだけどな…。編集者の方からお電話でいくつかコメントをもらったが(落選者にも電話が来るのだ)、詳しくは選考委員の選評を待ちたい。でも、私の他の作品を読んでくれていたのはうれしかった。
 最終選考者には、選考の日程も何時ごろ電話がくるかの連絡も事前にあるので、その日はずっと「はやく殺してくれ…!」と思いながら暮らしていた。が、殺されちゃうとやっぱり悔しい。立場的に、果たして来年は応募してもいいのかがよくわからないので、今年がラストチャンスじゃないといいなあ。

最近読んだもの、見たもの

『女性兵士という難問:ジェンダーから問う戦争・軍隊の社会』佐藤文香(慶應義塾大学出版会)

 女性兵士、と聞くとなにを思うだろうか。「男性さながら」活躍する女性か、もしくはジェンダー的に差別を受ける者か。著者自身も書いているが、フェミニストたちにとって、この「女性兵士」という存在は難物である、ということだった。平和構築の文脈の中で、軍隊という男性的ヒエラルキーの中の「転覆的」な存在なのか、構造の結果に過ぎないのか、などなど。フェミニストたちの考えも一枚岩ではなく、特に日本では語られることすら少ないという状況らしい。こういう話題は海外翻訳の本が多いので、日本から出ることには意義があると思った。特に、自衛隊がどのように女性イメージを活用してきたか、それが世界と比較してどうグループ化されるかなど、これは日本の研究者だからこそまとめられるものだろう。
 全編、昨今の研究についての概観を要点よくまとめていて、この分野にほとんど知識のない私でもよく理解できた。私が特に興味をもったのは、13章の「戦争と性暴力」の「犠牲者意識ナショナリズム」という話。慰安婦問題をとりあげながら、「語りの正統性」が認められるかどうかで、どの被害者がどこまで語ることができるのかどうかが社会的に決められる、というものだ。「敵によるレイプ」は正統性が認められやすいが、戦争花嫁がその先で受けるDVは、共同体の受難物語からは外され個別化されてしまう。この「語り」が社会によって狭められたり広げられたり、称賛されたり不可視化されたり、そういうところが私には気になる部分だったので、他の文献も読んでみたい。

「読む小説 安岡章太郎『果てもない道中記論』」粟津礼記(第29回三田文學新人賞)

 昔から私は、長い小説というのが好きで、カラマーゾフもスカーレットも、なんなく読んできたのだが、『大菩薩峠』だけはどうも読めなかった。中学のころ、教師も読書好きで、世界で一番長い小説のひとつはプルーストだろうみたいな話をしたあとに、日本では大菩薩峠だろうなあみたいなことを言っていたのがきっかけだから、もう何十年と挫折し続けている。
 この評論は、『大菩薩峠』を、安岡章太郎の闘病記と重ね合わせているところに面白みがあった。安岡は病気で長期入院する際の本として、この『大菩薩峠』を選んだ。安岡の体調の変化や記録と、『大菩薩峠』自体の物語をリンクさせていくことで、この安岡の随筆自体が、「小説を読む」という行為を客体化させた「読む小説」という体裁をとっている、という論の展開がわくわくするものだった。この評論はもしかすると、正道からは外れるタイプのものかもしれないけど、少なくとも自分は安岡の道中記も、『大菩薩峠』も読みたくなったので、とてもよい作品だと思う。

「〈残存〉の彼方へ―折口信夫のあたゐずむから―」石橋直樹(第29回三田文學新人賞)

 こちらは打って変わって、正攻法の評論だった。とはいっても、お若い方ながら、博覧強記の論の展開で、しびれるものだった。
 折口信夫はまあまあ読んできたつもりだったけど、「あたゐずむ」はあんまり覚えていなかった。鬼滅の刃の、記憶の継承みたいな話だ。石橋氏は、折口がなぜ「あたゐずむ」という概念を導入しなければならなかったのか、という部分を軸にして「残存」という民俗学の概念を解きほぐしていく。むつかしい!と思う部分もあったけど、あふれでるような言葉の奔流で、圧倒されました。

『ブレット・トレイン』

 バイオレンスな映画はあんまり得意じゃないんだけど、これは血がいっぱい出てきておもしろかった。たとえは悪いけど、小学生のうんちやおしっこと似ている。とにかく露悪的にぷしゅぷしゅ血が垂れ流されるのでよかった。意図してるのかは知らないけど、トンチキな日本イメージとも合っていた。伊坂幸太郎の原作も読んでたけど、こういう感じにしてよかったと思う。え、デイビット・リンチ?と思ったら、デビット・リーチだった。デッドプールの人かあ。

三田文学新人賞授賞式に行ってきた

 授賞式にお呼ばれしたので行ってきた。
 昨年は式のみで、懇親会もなかったので、今回はいろいろな人とお話しできてよかった。こういう会に出るたびに、自分はチャットボットみたいだなあと思う。定型句でしか話してないんだよね…。でも、スピーチみたいな形式はそこまで苦じゃない。不特定多数に話すからだろう。
 選考委員の先生たちとお話しできたのもよかった。特に、佳作の「あたう」を推してくださった青来有一先生とお話しできてうれしかった(みんな『聖水』は傑作だよ)。青来先生は、けっこうかっちりしたお話がお好きで、私のその部分を評価してくださり、「そういう職人的な作家でもいいんですよ」と言われたのがありがたかった。いしいしんじ先生とは、今度競作しましょうね、と言われたので、そうできるようにがんばります。

私の犬

 この前犬街ラジオに出させてもらったときに、自分の家族に創作活動を話しているかどうかみたいな話をしていて、みなさん意外に言ってるんだなあと思った。
 私は賞をとってもずっと言っていなかったので、なんでかなあと思ったら、そうだ、父親が面倒くさいからだと、この前実家に行って思い出した。『文學界』が売り切れて手に入らなかったというので持っていったんだけど、父親はぱらぱらとめくり、「まあわざわざ買っては読まんな」と、(さすがに私のいない場だったが)憎まれ口を叩いていたのが聞こえた。10年前なら「あ゛ぁ?」と喧嘩をするところだが、私も大人になったのでそういうことはしない。またか、というのと、そういやそうだったという感覚を思い出すだけだ。とにかく世の中を斜に構えて見て、皮肉を言いたがる人なのだ。私もともするとそういう傾向があるので、反面教師にしている。
 だからあまり父に褒められた経験というのはない。褒められても、二言目にはなにか小言めいたことを言われた記憶しかない。もっと愛され老人になった方が生きやすいとは思うが、それは性格だから仕方ない。仕事柄、文章と英語が得意な人で、高校のころは英文の添削もしてもらったことがあるが、これがイヤでイヤで仕方なかった。とにかく話が長いし、絶望的に教えるのが下手くそなのだ。私の頭がおっつかないと、しまいには不機嫌になる始末だった。残念なことに、私と父は似ているところも多いが、決して交わらない性質たちだった。イギリスとアメリカのように。コオロギとバッタのように。
 そういうわけなので、もう新作書いても言わんようにしよう、と心に決めた滞在だった。幸いだったのは祖母に会えたことで、体を悪くしている彼女は施設に入る前で、短いながらも話をできてよかった。頭はしゃっきりしているので、昔話もしてくれた。その中には父のことも含まれていた。祖母はマメな人で、家計簿も毎日つけていた。昭和35年のそれは、買ったものの値段から、短い日記まで記されていて、非常に面白かった。次のネタにしようと思いながら読んでいると、「今朝トムが死んだ」という文があった。トム。それは、私が子供の頃に飼っていた犬の名だった。十年ほど生き、彼も私が大学の頃に死んだ。
「このトムって」
 私が父に訊ねると、ああ、と父は頷いた。「オレが子供の頃に飼ってた犬だ」でも、と私が訊ねる前に、父は先回りして続けた。「その犬もトムって名前だったんだ。お前の犬の名前もトムになったとき、ちょっと思い出したけど、まあいいかなって」
 父が飼っていたトムは、庭に埋められらたと書いてあった。私はその話をまったく知らなかったし、父はまったく語らなかった。平行だった線はたぶんどこまでも平行なのだろうが、私は私の人生と父の人生がどこかでつながる音を聞いた。その線は2つのように見えるが、実際のところはひとつの長いなにかなのかもしれない。いつかイギリス人が「サッカー」と言ったり、アメリカでメートル法が使われたりする世界もあるのかもしれない。我が家の庭の土の下には、そういった語られないものたちが埋まっている。いくつも。そんな私の家は、今年とりこわされる。