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渦とコリオリ

 
 水流は左に渦を巻いている。
 市民ホールのお手洗いは時間にとり残されているようで、いまだに和式の個室が併設されたつくりだ。鏡の右下には小さく「お弁当のご用命は」という広告が入っており、市外局番から電話番号が示されていて、私は何となくそれを懐かしく見た。鏡の中にはばっちりと化粧をした自分が容赦なくうつっている。にっと笑顔をつくってみせると、目じりのあたりが罅われる。隣のシンクの蛇口も捻り、水を流す。左の渦。姉が死んでから、流れ出る水という水の渦という渦は、すべて左回りになった。トイレも、お風呂も、台所も。
 控室に戻ると、坂東さんが、忙しなく片づけをしていた。ホールの控室はだだっぴろい和室で、散らばった座布団を並べたり、転がったペットボトルを直したり。姉と同級生だったという彼女は、「マグロと同じで、動いていないと死んじゃうの」とよく言っていた。
「あらここちょっと」
 坂東さんは私に気がつくと、腰につけたポシェットからブラシをとりだし、手早く頬にあてた。「うん、よれがなおった」満足そうに言い、「どう?」と肩を叩いた。まあこの歳になると、と私は言い、そうよね、と坂東さんも頷く。自然、二人は壁掛けのテレビに視線を移す。『くるみ割り人形』は、第一幕の第六曲あたりで、クララがねずみの王様に会う場面だ。クララ役の女の子は、かなり演技が大げさだが、さすがに上手い。タンデュやジュテといった基礎の動きも無駄がなく、相当に今まで練習してきたのだろうことがわかる。
 坂東さんに今回の公演に誘われたのは半年ほど前で、姉の葬式からも半年ほど経っていたわけだから、都合、一年ぐらいが経過していた。「素人の手作りバレエ団」だから、という坂東さんの言葉は半分は本当で、近所のバレエ教室に通う八歳の子から、昔嗜んでいたことがあるという七六歳のおばあちゃんまで、雑多なメンバーが揃っていた。とはいっても坂東さんの指導は手抜きがなく、アマチュア楽団ながら生演奏つきの舞台で踊れる環境はそうそう実現できるものではない。ストレッチからやり直した稽古は私にとってなかなか大変なものがあった。その間に、水の渦は左を巻き続け、私は姉の住んでいたアパートの小さな部屋を整理した。驚くほど物のない部屋で、だからこそ、子ども時代のバレエグッズがまとめて置いてあるのが目立った。私はそれを処分できずにまだもっている。
 控室には今は子供が多い。第二幕のお菓子の国まではまだ時間があり、どことなく空気は緩んでいる。衣装に着替えた子はさすがに緊張した顔をしていたが、他の子は稽古着のままストレッチをしたり、台本をさらったり、スマホを眺めたりしている。壁際には申し訳程度の鏡が二個ほど置いてあり、誰かのメイク道具がそのままになっていて、死んだ姉がその前に座っている。正座で、背すじから音が聞こえそうなほど、ぴん、と伸びている。
「違う」
 鏡に映る私に向かって、姉は言う。「立ち方からしてなってない。左と右のバランスが崩れている。腹に力が入ってない」
 私はぐっとお腹に力をこめる。息が止まる。テレビの中では、くるみ割り人形がねずみの王様と戦う。演者が入り乱れる。下手くそだね、と姉は言う。なってない。なってないよ。
「あたしは上手だと思うけどね」
 坂東さんが隣で言う。姉は鏡越しにじとりと彼女を見つめる。「凪なら『なってない』ってたぶん言うだろうと思ってさ。でも、それは、見かけの話じゃないか」
 見かけ? と私が訊ねる前に、泣き声がした。それほど大きくはない。しくしくと、締まりきってない蛇口からぽたぽたと垂れるような、そんな音だ。姉はあからさまに舌打ちをする。結婚もしなかった彼女は、子供を毛嫌いしていた。
 あらあらひーちゃん、と坂東さんが寄る。「中国の踊り」の赤と黒のチュチュを着て、お団子頭の女の子。十二、三といったところだろうか。多くの演者がいるので、私もいちいちは把握していなかったが、坂東さんはすべて記憶していた。「あらあらあらあ」と今度は少し声を低くして坂東さんが彼女のタイツに触る。茶色いシミがついている。「衣装に替えてから食べるなんて」と姉が毒づく。チョコレートかな、と坂東さんは言い、濡らしたタオルをあててみるが、うっすらと痕は残る。「替えはもってる?」と訊くと、首を振る。その横で、なってないねと姉が繰り返す。「お母さんは?」と坂東さんが重ねて訊ねても頭を振り、「連絡しようか?」と言うと、その振り方が激しくなった。
「ひとり減ったって変わりゃしないよ」姉は落ちていた座布団を蹴飛ばした。「下手くそがいなくなるならなおさら
「私もってますよ」
 私は困り顔の坂東さんに声をかけた。「いや、自分のじゃなくて、子供の頃の」
 姉の、とは言わなかった。助かるわあ、と坂東さんは大げさに喜んでみせ、ね、とひーちゃんの方を向く。その少女はそれでも泣き顔のままうつむいている。いこっか、と私が手をつかむと、いや、と振り払われた。ああいやよねごめんねオバサン気づかなかった、と私は言い、オバサン、と誰かに向けて自分を称したのは初めてだと思った。
 控室を出て、駐車場に向かう間、ひーちゃんの、いや、という言葉が渦を巻いていた。いやいやいやいやいや。それは左か右かわからない方向に回転し続けている。彼女のお団子頭を思い出す。つむじは見えなかった。でも、つむじの向きは右がいいな、と思う。
「あんたは左巻きだからね」姉は鼻で笑う。彼女はコンクリの床に寝そべっている。「だからなんにもうまくいかないのさ」
 トランクにはIKEAの青い袋が入れてあって、その中に、姉の部屋から持ってきた道具が一式入っている。化粧道具、バレエシューズ、ボトムスにブーティにパーカー。姉は極度の冷え性で、控室には前日から電気ストーブを持ちこむほどだった。タイツは新品のままそこにある。彼女がバレエをやめたときから、ずっとそのままだ。氷のようなにおいがして、「あたしの勝手に触んじゃないよ」という姉の声が後ろから響き、私はばたんと、わざとらしく大きな音を立ててトランクを閉めた。
 ひーちゃんは泣き止んでいたが、メイクが崩れていたため、宥めながら坂東さんがチークを塗り直していた。どうかしら、と私が脚にあてがうと、うんぴったりね、と坂東さんが言った。色も一緒で、あなたラッキーよ。ひーちゃんはぜんぜん幸運そうじゃない瞳で、その古めかしい新品のタイツの袋を見つめた。
 着替え終わるころ、姉はあくびをしながら、「つまんないアダージョ」と呟いている。ひーちゃんはタイツの履き心地が気になるのか、膝を伸ばしたり曲げたりしている。
「少しやってみれば」坂東さんが声をかける。「那美さん、バレエの学校の先生なのよ」
 昔の話です、と私は言うが、教えるのは私よりも全然上手、と坂東さんはなおも言う。「オバサンも踊るの?」とひーちゃんは訊ね、那美さん、と坂東さんにたしなめられる。
「最後の方に、ちょっとだけ。ほら、お菓子の国でみんなが集合するところ」
 練習にも数回だけ参加したのだが、ひーちゃんは気づかなかったようだった。
「ピルエットが苦手」
 ひーちゃんは立ち上がり、パッセをする。畳の上はやりにくいのか、少しよろける。坂東さんが、廊下がいいわよ、手すりもあるし、と教えるので、そちらに行く。「プレパレーション」姉が言う。ひーちゃんは四番プリエからパッセをつくり「軸がぶれてるよ」ピルエットを試みるがよろける。
「無駄だよ、けっきょく体幹なん「プリエをもう少しがんばろう」私は言う。だから」「しっかり深く、膝を使って曲げないと。重心がずれてるんだよ」
 私はプリエするひーちゃんの脚をとり、微調整する。「無駄だよ」姉がまた口を挟む。「お前はなにをやってもうまくいかないさ」
「大丈夫」
 私はひーちゃんに声をかける。「いつもはできているんでしょ。体がかたくなってるだけ。楽しいことを思い出そう、落ち着く風景を思い浮かべよう」
「海」
 間髪を入れずにひーちゃんは答える。「渦潮。橋から見たやつ」
 へえ、と坂東さんの方が声を上げる。四国にすら足を踏み入れたことのない私にはうまく想像できないが、「旅行で行ったの?」と会話をつなぐ。
「うん、パパと」
「二人で?」
「そう」
「仲良しだね」
 うん、昔は。とひーちゃんは小さく答える。「今はもういないから」
「もういないよ」姉はひーちゃんの横に立っている。クロワゼ・ドゥヴァン。「私たちはなにもかもなくしちまったんだ」
 そう、と短く私は言った。「私も行ったことある」と、坂東さんが口を挟んだ。「船に乗って見たんだけど、すごかったね。こう、なんていうの、潮の流れでああいうのができるんだってね」
「じゃあ、その渦みたいに」笑顔で言うと、少しひーちゃんも顔をほころばせた。「でも、勢いをつけすぎないでね」
 ひーちゃんは頷く。四番ポジション、クロワゼ、腕はアラスゴンド。ルティレ。さっきよりホールドができている。回転。左が軸足になっているので、右に回る。ぐるり。シングル。腕が元に戻る。「いいじゃない」と坂東さんが言う。「落ち着いてる」と私は言う。「下手くそ」と姉が言う。ひーちゃんはほうっと息を吐く。
「教え方が上手」
 ひーちゃんは腕をアンバーにして、ポジションを確かめる「なんでバレエ始めたの?」
「姉がね」私は言った。「とてもすてきだったから」
 それは嘘だった。彼女のアラベスクを初めて見たときを、まだ私は覚えている。歳が離れていたとはいえ、その完成された身体の動きはあまりにも遠すぎた。掌から、つま先まで、あらゆる筋肉がたおやかに動き、汗の一つ一つまでもが彼女の踊りの一部のようだった。
「バレエはやめちゃったの?」ひーちゃんが訊く。
「仕方ないさ」「仕方ないよ」
 私の声は姉と重なる。「ケガをしちゃったんだ」「子供のころに」「大きくなってから」
「やめるのって辛い?」ひーちゃんが訊ねる。
「辛いよ」姉は答える。
「辛くないよ」私も答える。
 私は姉の顔を見る。その顔はいつまでも若く幼い。私は留学し、短期間でもバレエ団に所属し、帰国後はバレエの専門学校の講師として招かれ、多くの生徒を輩出しても、姉は「下手くそ」と言い続けた。パッセを、プリエを、ピルエットを、姉は私を認めなかった。「そんなターンはない」と姉は言った。「右回りだろうが左回りだろうが、お前の動きはつくりものだ」。そして、自分だったら、と続けた。それを私は真実だと思った。確かにそれは実現されなかった未来ではあるが、しかし姉のケガがなければ、必ず現実となって存在する現象のはずだった。姉の雑言は年を追うごとに激しくなり、私がケガをしてバレエから一切手を引いても、変わらなかった。
「それって嘘じゃない?」ひーちゃんが言った。合わせるように、姉の声も響いた。「それって嘘でしょう?」ひーちゃんは続ける。「那美さん、バレエしたくてここに来たんでしょ?」声が重なる。時間の流れが淀む。自分がどこにいるかわからなくなる。小さな公民館の木製のステージに、私たちはいる。私はピルエットをしている。「下手くそ」姉が言う。クリスマスの発表会。本番前にそう言われた私は「もうやめる」と舞台にあがらなかった。泣きべそをかきながら、観客席に座って見た。姉のターンは完璧だった。いや、少しだけ、ほんの少しだけ違った。姉は軸足を変え、左回りに回っていた。くるんくるんくるん。「あんたのために回ったのよ」姉は帰りに言った。寒い日だった。「左巻きの出来損ないなんだから」やめるなんて、嘘でしょ。姉はそう言ったし、それは、その通りになった。
 時間になり、私たちは子供と一緒に舞台袖近くまで移動した。ひーちゃんは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて、他の子供たちと一緒に舞台に上がる。タンデュ、ジュテ、そしてピルエット。小さな子供たちは波のようにそろって踊っている。
「凪とふたりで旅行に行ったことがあるのよ」
 ぽつりと、坂東さんが言った。「さっき、渦潮を見たって言ったの、凪に誘われて行ったときの話」
 姉が旅行に行くのも珍しかったし、他人と行くなんてなおさらだった。
「凪が渦潮見ながらね、ずっとコリオリの話をしてたの。ほら、地球が自転してるってやつ。台風も洗面台も、渦はその力が働いてるからだって」
 へえ、と私が頷くと、でもそれって嘘なのよね、と坂東さんは笑った。本当は地形とか潮流とかのせいで、全然関係ない、でもあの人頑固だったから……「だけど」姉が言う。「見かけの力は大切なのよ。渦に見えているそれも、そう見えているだけなんだから」坂東さんの声が重なる。
「おかしな人だった」
 ため息のように坂東さんは言った。彼女は顔をそむけた。私は、姉のつむじを見たことがありますか、と訊きたくなって、だけど、やめた。たぶん、見たことがあるからだ。
 演目は終盤になった。私は前を見て、そして一歩を踏み出す。大勢の中に紛れて、私は回る。くるくると、くるんくるんくるん、と。音楽は高鳴る。私は今ここにいて、ここにいないことを感じる。渦はいくつもできている。私の内側にも、外側にも。それは上から見れば左で、下から覗けば右に見えた。
 なってない。客席の一番前に座る姉が言う。相変わらず背すじは伸びている。そうよ、と私は呟く。でもそれでいい。それは、そう見えているだけのことだから。