マックの女子高生

 マックには女子高生がいる。
 これは稲荷神社の狐や、遠野の川の河童のように、甚だ自明で自然のことである。そしてその女子高生はアテナイの巫女よろしく、深謀遠慮な言葉を吐いて、世の人々に真実と現実を突きつける。
 例えばネット上に散見される、マックの女子高生の至言には以下のようなものがある。

さっきマックで隣になった女子高生の会話。A「人生って深いらしいよ」B「じゃああたしは水たまりぐらいだ」A「でも空がきれいに映ってるじゃん」深すぎてポテト吹いた

 もちろん、この「マックの女子高生」の会話はテンプレート化しており、「嘘松(注:作り話の意)」などと揶揄されることもしばしばである。しかし、そのような作り話を認定する人物たちのどれほどが、マクドナルドで女子高生と席を同じうすることがあっただろうか。そして、彼女たちの言葉に耳を傾けることがあっただろうか。実測に基づかない反論など全て唾棄すべきであり、空想の世迷言だと罵ったところで誰が反論できるだろうか。
 そのため、我々が実地調査に乗り出したこと自体は研究者気質として自然な帰結であった。果たして「マックの女子高生」は、ツチノコ程度の信憑性なのか、エスキモーぐらいは夢を見させてくれるのか、我々は一路、マクドナルド渋谷東口店へ向かった。

 我々がまず考えたのは、調査拠点をどの席にするかということだった。恐らく長丁場が予想されるため、本来であれば隅の席を選ぶことが望ましいが、しかし隅というのはその性質上、隣り合う席が二つに絞られてしまう。そこで我々は、敢えて二階席の真ん中に拠点を置いた。多少目立つことになるが、これであれば、女子高生がどの席に座ったとしても、ある程度対応できると考えたからだ。
 調査は午前十時半から行われた。これは調査員のエヌ氏たっての希望で、通常メニューが開始されることを優先させただけであり、あまり深い意味はない。まずは軽くハンバーガーセット(Lサイズ・コーラ)を頼み、我々は席に着いた。客数は少なく、パソコンをいじるサラリーマン風の男と、眠りこけている金色の髪の男以外は誰もいなかった。
 客足の最盛期は昼時と踏んでいたので、それまでに我々は、「マックの女子高生」をめぐる情報について整理を始めた。
 このネットミームが流行りだすのは二〇一〇年ぐらいであること、2chなどが発祥とされているが定かではないこと、会話形式だったり、格言のような感じだったり、形は様々であることを我々は再確認した。
「自分はこのミームは古代よりある稚児の話を下敷きにしていると考えます」
 エヌ氏がコーラを飲みながら言った。「論語の洛陽が太陽より遠いことを言い当てる子供や、宇治拾遺の麦の花が散って泣く子供といった、真実や現実を突きつける稚児たちの系譜です」
 世間一般の認識として、(失礼な話だが)「女子高生」のイメージは、「知的」や「厳粛」といったものの対極として存在している。なるほど、そのギャップが人々の心に響くのは現代も昔も変わりないのかもしれない。
 昼時になると店内は混雑し始めた。しかし、肝心の女子高生は現れない。我々は失念していたのだが、この日は平日であった。女子高生は女子の高校生なのだから学校に通っているはずで、そもそも平日昼間のど真ん中に現れることの方が確率が低い。女子高生なら学校をサボタージュして反社会的に渋谷のマクドナルドに来てもよい気がするが、それは高望みというものだ。しばらく我々はマックナゲット(15ピース)を食べながら、サラリーマンと若い母親風の集団を眺めながら、彼らの年齢や職業などについてあれこれ話していた。途中、我々の声が向こうに届いてしまったのか、ギロリと睨まれる一幕もあった。
 夕方になると、学生風の男女が出入りするようになってきた。しかし、なかなか目当ての女子高生は現れなかった。もしかすると集団の中にいたのかもしれないが、女子を見る経験の浅い我々には女子中学生なのか女子大生なのかすら判別することができなかった。
「自分たちが判断しているのは外側だけということですね」
 エヌ氏がマックシェイクを飲みながら淋しそうに言った。
「我々は、彼女たちが制服を着て、校章でもつけていなければ、何者か判別することすらできない。その程度の認知で検証を続けているということです」
 調査の根幹を揺るがしかねない発言であったが、我々はもう少しだけ続けてみようと、ビッグマックセットを注文して、ひたすら彼女たちの出現を待った。
 ようやく女子高生が現れたのは、もう日の落ちた頃だった。
「ぢー(注:暑いの意)」
「こーでいー?(注:ここでいい?)」
 彼女たちは我々の席の通路を挟んで向かいに座った。白いシャツに襞のついたスカート、学校名の入ったバッグ。まごうことなき女子高生である。女子高生は三人おり、我々は便宜的にA(茶髪)、B(眼鏡)、C(口紅)と名付けた。
 女子高生たちの会話はまさに女子高生の会話であった。カラオケで声が枯れたこと、クラスのキモい男子の話、今度の期末テストがヤベーという叫び、時折放たれる無遠慮な笑い声。会話は基本的にはAが主導権を握っていたものの、バランスよく話題をお互いに提供しており、彼女たちのファシリテート能力に我々は感嘆した。
 しかし、なかなか「マックの女子高生」の鋭い警句には出会えなかった。我々は小声でこの出会いだけでも感謝しようと相談し始めたころ、ようやくCが興味深い発言をした。
「てかさ、最近ちょっと人生つまんないんだよね」
 Aは「なになに?」と笑い、Bは「コイバナ?」と茶化した。Cは声のトーンをそのまま、「なんかさ、おんなじことの繰り返しでさ。なんだろなーって」と続けた。沈黙が訪れた。
 我々は胸を高鳴らせ、続きを待った。しかし、続きは来なかった。
「ごめん、つまんない話だよね」
 Cはそう話を打ち切った。Aは「深イイネ」と声をかけ、別の話題を振った。さすがの我々も、失望を隠しきれなかった。我々の知る「マックの女子高生」ならば、同じように人生に飽いている世の人々の胸に直角に刺さるような箴言を口にしてくれるはずだった。やはり、伝説は伝説でしかないのだ。
 それから女子高生たちはひとしきり別の話題で盛り上がった後、席を立った。我々も潮時であった。彼女たちは丁寧にゴミを分別して捨てると、我々の横を通り過ぎた。いや、通り過ぎる前に、一瞬だけ立ち止まった。立ち止まり、こう言った。
「キモッ」
 そしてそのまま、階段を降りて行った。稲光の後の轟く雷鳴のように、階段を降り切った辺りであろう、彼女たちの爆笑が聞こえた。我々はしばらく静止した後、黙ってゴミを片付け、同じように階段を降り、外に出て、蒸し暑い夜の渋谷の交差点で、ようやく顔を見合わせた。
 確かに、マックの女子高生は、我々に真実と現実を突きつける。

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【作者付記】
 「マックの女子高生」は、初めて六枚道場(第9回)に出したものです。六枚道場の枚数に収めるために削ったものを復活させた形でこのnoteには投稿しました。
 この話の「我々」は、私としてはおバカな男子高校生か大学生程度を想定していたのですが(森見登美彦あたりを想像してもらえるとよいかと)、感想を拝見するともう少し年齢層は上に感じられたようですね。
 小説を読んでいると、読者は何となく主人公に肩入れする傾向があるかと思うのですが、最後の女子高生の一言で、読者自身も現実を突きつけられる、というねらいがありましたが、ちょっと「我々」はきもすぎだかもしれません。