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あ、今の嘘だろうな。
って感じることがよくある。


でもそれをわざわざめくる必要は
ないんじゃないかなと最近思う。


きっとその人は、私にそう思って欲しいのだ。
それが嘘だとしても、真実だと思って欲しい。

だからその人の前では、嘘に騙された振りをしてあげたらいい。


それを探ったり誰かに確認して本当のことを知ろうとしたり、「嘘をつきました」と訂正させることにはなんの意味もない。


「嘘はとびきりの愛だ」
なんてフレーズが流行ったけれども、
どちらかと言えば、嘘だとわかっていてそれそのまま受け入れてあげる方が愛ではないか。



主張は願いだ。


感情という本体があって、私たちは言葉という借り物を使って自分を表現する。
それは動作だったり表情だったり。


だから言葉という上辺のものだけで判断してしまうのは勿体ない気がするのだ。
この言葉の中にどんな感情があったのか、どんな葛藤があったのか、私はそれが知りたい。


もちろん、推し量った上で勝手にわかった気になるのはよろしくない。
ただ、人間というのは矛盾の多い生き物で、言葉一つで量るには難いということをわかっているのだから、相手が不本意なことを言ってしまったと自覚した場合に、捉え方の逃げ道を用意してあげていたいと思うのだ。


「あの時こういっていたくせに」
と責めるのはあまりに可哀想だ。


人間がそんなに完璧だったらつまらない。


これらもまた、私の願い。

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