【読む刺激】『コウモリの見た夢』

「帝国」の申し子が叛旗を翻すまで

《初出:『週刊金曜日』2011年4月8日号(842号)、境分万純名義》

『グレートギャツビー』(S・フィッツジェラルド)や『ノルウェイの森』(村上春樹)に擬されやすいが、同時代喫緊の課題と切り結ぶこの小説に失礼というものだ。
 その課題とは、9・11米国同時多発テロ事件(2001年)以降、米国の“対テロ戦争”に侵食された国際社会の回復と、個人がなし得る手段やその可能性について。

 著者は、パキスタン・ラホール生まれ。
 米国のプリンストン大学とハーバード・ロースクールを卒業後、マッキンゼーでコンサルタントとして働きながら創作を開始した。2007年発表の本書は、英国ブッカー賞最終候補作にして、国際的ベストセラー。

 著者を髣髴とさせる経歴をもつ主人公の「僕」は、ラホールの旧市街で「たまたま」出会った米国人男性に半生を語りはじめる。「アメリカ帝国」の忠実な申し子だった自分が、9・11を境に、いかにして故国に戻り、自国の若者を帝国的価値観から遠ざける生き方を選ぶに至ったか。

 ちなみに、「僕」がニューヨークで従事していた仕事はエバリュエーション(企業価値評価)である。その業務で常に強調された指標がファンダメンタルズ(ここでは「財務諸表」をさす)だった。
 本書の原題『The Reluctant Fundamentalist』には、その意味でのファンダメンタルズと、原理主義者を意味するファンダメンタリストが掛けられている。この場合の原理主義者とは、米国社会がパキスタン人の「僕」に貼りつける不当なレッテルという意味合いだろう。

「僕」の相方となった米国人は、終始ひとことも発しない。「僕」の語り口はあくまで上品で穏やかである。しかしこの、全編にみなぎる、脂汗がにじんでくるような緊迫感――。
 妙な言い方だが、これがフィクションでなかったとしても違和感はまったくなく、主人公には昔なじみの気心の知れた友人のようなリアリティがある。

 先月11日(2011年9月11日)に世界が見たのは、10年という時の経過にすぎないといって過言ではない。この間に山積した、米国と同盟国による戦争犯罪や人権侵害だけでも、本来なら戦犯法廷を開くのにじゅうぶんな深刻さである。

 他方、米国型資本主義なりグローバル資本主義の頂点から、著者のような「転職者」が現われてきたことに知的興奮を覚える。帝国の好き放題にどう楔を打ちこむかの参考になるかもしれない。

『コウモリの見た夢』
モーシン・ハミッド=著 川上純子=訳
武田ランダムハウスジャパン
1900円+税 ISBN978-4-270-00654-2

(付記)
『コウモリの見た夢』は、『モンスーン・ウェディング』(2001、印=米=伊=独=仏=英)などで知られる、インド系米国人女性のミーラー・ナーイル監督によって、原作タイトルのまま映画化されている。日本では劇場未公開だが『ミッシング・ポイント』(2013、米=英=カタール)として DVD が発売された(アマゾンの Prime Video にもある)。

 ただし出来は良くない。原作は、その持ち味からして映像化が難しいのは素人目にも明らかで、小説でこそ味わうべきフィクションである。
 監督の問題意識は正しいのだが、映画づくりの手法が合っていないのだ。スパイストーリーの出来損ないといおうか、起伏のあるサスペンスに無理やり翻案しようとしたのが、そもそもの間違いだと思う。

 ついでにいうと、ナーイル監督についてはむかしから、長編劇映画づくりにはあまり向いていないのではないかという印象がある。『モンスーン~』のような人畜無害の話ならともかく、『その名にちなんで』(2006、印=米)にしても『ミッシング~』にしても、出発点はいいのだが、描いていくうちになぜかテーマを見失い、まっとうであったはずの野心が空回りするだけに終わる例が少なくない。

 ナーイル監督には、私見では、ドキュメンタリーや短編に力を入れてほしいと思っている。
 たとえば、フィルムメーカーとしての初期に手がけたテレビドキュメンタリー『インディア・キャバレー』(1985、米=英=加)。私は1992年当時、飯田橋(東京都千代田区)にあった東京都女性情報センターでの上映会で、幸いにも見ることができた。インド・ボンベイ(現ムンバイ)でストリッパーとして働く女性たちの日常を追ったもので、その稼ぎに頼る家族たちの挙動に理不尽さを感じたことなど、30年後のいまでも強く印象に残っている。

 また、『11'09''01/セプテンバー11』(2002、仏=英)収録の短編(エピソード9)も非常に良い。各国の著名監督による競作オムニバスであるが、パキスタン系米国人が9・11で実際に経験した悲劇をドラマ化したもので、11編のなかで最も心を動かされた。逆に言えば、この短編があったからこそ、『ミッシング・ポイント』にも期待したのだが。


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