【読む映画】『神に誓って』 正面から捉えたムスリムの苦悩

 本国パキスタンでは、2007年7月の公開以来、歴代興行記録を塗りかえる大ヒット。映画という枠を超え、一大社会現象にまでなった。フィクションでありながら、パキスタンの一般市民に身近でリアリティのある主題を正面からとり上げた、稀有な作品であるからだ。すなわち、「内」にあってはイスラーム狂信主義者に脅かされ、「外」に出てはムスリムというだけでテロリスト扱いされる、過酷な板ばさみにおける苦悩と混乱。

 主人公は、ラホールでポップシンガーとして活躍する中産階級の兄弟と、そのいとこで、パキスタン系英国人としてロンドンで育った女子学生の3人。

 無口で内向的な弟サルマドは、ふとしたきっかけから、イスラーム学者タヒリ師と知りあう。タヒリ師は、アフガニスタンとの国境を自在に往来しつつ、"ジハード(聖戦)"を扇動するタリバン指導者である。
 タヒリ師に洗脳されていくサルマドは、ハラーム(イスラームの禁忌)だとして音楽活動を放りだし、家中の絵画も取りはらい、母親には「ヘジャーブをかぶれ」と迫る。ついには、タリバンに加わってしまう。

 失意の兄マンスール(パキスタン映画界筆頭のスター、シャーン)は、仕切り直しに米国へ音楽留学。他方、いとこのメアリーにはキリスト教徒の婚約者がいるが、反対する父親は、娘を騙してラホールに連れていき、現地で無理やり結婚させようとする。
 そこへ「9・11」が起こり、3人の人生はより大きな嵐に巻きこまれる――。



 マンスールは、連邦捜査局(FBI)によって令状なしで拘禁され、アルカイダの一味と決めつけられる。在米パキスタン人の実体験に基づいて構成したという尋問内容はすべて言いがかりであり、拷問の描写は正視に耐えない。

 私が連想したのは、04年に日本で起きた、アルカイダ冤罪事件だ。日ごろは警察・公安情報の垂れ流しを批判している周囲の報道人までもが冤罪に「加担」した。かれらの物言いが、FBI 捜査官の言いがかりにダブってくるのだ。

 メアリーのケースは、欧米のパキスタン系移民社会で、かねがね問題になっている「強制結婚」である。狂信主義的解釈では、ムスリム男性は啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)と結婚できるが、ムスリム女性には禁じられる。しかしそれは妥当なのか。あるいは音楽や絵画は、本当に厳罰を科されるハラームなのか。これらの解釈をめぐる裁判で、タヒリ師の誤りを、説得力をもって指摘するのがワリー師だ。見どころ満載のなかでも、大きなヤマ場である。

 ワリー師を演じるのは、ボリウッドの代表的名優ナスィールッディーン・シャー。印パ映画界の友好促進を推進してきたひとりでもあり、今回も即座に快諾するのみならず、無料出演を申しでた。

 印パ間では、1965年の第2次印パ戦争以来、商業映画の輸入公開が停止されていたが、2008年にようやく解除された(注)。それにより43年ぶりにインドで商業公開されたパキスタン映画がまさに本作で、「パキスタンに対して、自分がいかに偏見をもっていたか反省した」などと大好評を得た。

 2008年8月、国際交流基金の招きで初来日したショエーブ・マンスール監督は、私が単独取材した際、特別審査員賞を受賞したカイロ国際映画祭(08年)を印象深くふり返っていた。「この映画が描いているのは、世界中のムスリムが直面する問題だ」と涙ながらに語る観客がいたのだという。

 日本には、狂信主義的解釈を、あたかも正統解釈とするような報道や「専門家」の言説が、あふれ返っている。しかし、イスラームの解釈とは本来多様であって、それを生きるムスリムもまた然りだ。その多様性を認識しないということは、内なる敵と闘う幾多のムスリムをさらなる苦境に追いやることになり、それがまた多くの悲劇を誘発しかねないことを、この作品は鋭く告発している。

原題:Khuda Kay Liye
監督・脚本:ショエーブ・マンスール
出演:シャーン、イーマーン・アリー、ナスィールッディーン・シャー
2007年/パキスタン=英=米/169分

初出:『週刊金曜日』2008年9月12日号(718号)。数字表記などを加筆。

注:主として、ウリ陸軍基地襲撃事件(2016年)から、インド側カシミールの自治権剥奪(19年)にいたる印パ関係の悪化により、実質上、08年以前の状況へ逆行している(20年2月現在)。

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