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#181 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※ ワークブック訳は"There Is No Spoon "https://thereisnospoon.jp/blog-entry-822.html と、「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参考にしています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン181 元の講義はこちら→ https://youtu.be/2vDfDbRgclY


ハーイ皆さん♪またやって来ましたね。
もうレッスン181まで到達したなんて、信じられる?いったい今年の時間の流れはどうなってるのかしら!

さて、ワークブックの中で、一連のレッスンの前に序文があるのは今回が初めてのことです。本の最初に序文がありましたし、各復習セクションの前にもありますが、一続きのレッスンに序文がつくのは初めてですね。これから新しいレベルの学びに乗り出すということでしょう!

このように始まります。

「次に続くいくつかのレッスンは、漫然とした取り組み方を真剣なものに変え、散在するゴールをひとつの目的へと集約するためにあなたの意欲を堅固にすることを主眼としています。

今のところはまだ、全面的な献身を常時求められてはいません。しかしあなたには今、そうした一様な取り組み方がもたらす平安の感覚を、たとえ断続的にでも味わえるように練習することが求められています。」

まだ私たちは全面的に献身しているわけではないですね。私たちはなんとなく献身しているような感じはありますが、まだまだ自分のやり方で他の色んなことを行なっています。自分で世界を治してやろうとしています。

「これを経験することで、このコースが定めている道に全面的に従いたいというあなたの意欲がやがて確実なものとなるでしょう。」

妨げとなっているブロックを見つけて、それが手放せるようになるでしょう!

次のパラグラフではこのように述べられています。

「私たちのレッスンがこれから目指すのは、特に、視野を広げることであり、(私たちのマインドをクリアにすることであり、)あなたのビジョン/心眼を狭く限定して私たちのゴールの価値を見えなくしている特別な妨げに対し、直接的なアプローチを取ることです。」

私たちが無垢性を見ることに価値を見出す助けをしてくれるのです。
これが言わんとしているのは、これからはさらに私たちの抱いている特定の罪悪感を見つけることに、一層注意を向けるということ、私たちの持つ特定の防衛、特定のサバイバル・プログラムと条件付けを突きとめることに焦点を当てるということです。
妨げとはそのことを言っています。これからそうしたブロックを浮き上がらせ、捨て去ることを試みます。

「私たちが今から行おうとしているのは、こうした妨げを(浮上させ、)ほんのわずかな間でも取り除く(手放す)ことです。それが取り除かれた時の解放感は、言葉だけで伝えられるものではないでしょう。しかし、自分が見るものを厳しくコントロールするのをやめた時に訪れる自由と平安の体験が、自ずとそれを物語ってくれるでしょう。」

安全でいようとするコントロール、成功するために自分に課しているコントロール、自分の欲しいものを得るためにしているコントロールを手放した時に感じる解放感が、それを物語ってくれるでしょう。

「そうなると、動機が強まるので、言葉はほとんど重要ではなくなります。あなたは自分が何を望んでいるのか、(何を欲していないのか、)何が無価値なのかを確信するようになるでしょう。

だからまずは、あなたの進歩をいまだに阻んでいるものに焦点を合わせることによって、言葉を超えていく旅を始めます。

防衛を超えたところにあるものは、それが拒否されている間は体験されません。それがそこにあっても、あなたはその存在を受け入れることが出来ないのです。」

あなたはもしかしたら、「私はゴージャスな庭が欲しかったのに!」と願っているかもしれませんが、それを覆い隠しているカーテンの存在がわかっていないだけなんですよ。

「だから私たちはこれから、毎日少しの間、すべての防衛を超えていこうと努めていくのです。これ以上のことは必要ないので、これ以上のことは求められていません。それだけで、他のすべても訪れることは、充分保証されています。」

では、レッスン181
「私は、自分の兄弟たちを信頼する。彼らは私とひとつなのだから。」


「あなたが自分自身についての疑念や確信の欠如を乗り越える能力が自分にはあるという信念を確立して維持するためには、あなたの兄弟を信頼することが必須です。
あなたがある兄弟を攻撃するとき、あなたは、その人はあなたがその人だと知覚した姿によって制限された存在だと宣言しているのです。」

「兄弟を攻撃する」とは、あなたは主に相手の振る舞いや言葉、つまりその身体が行っていることに注意を向けているということです。そのように知覚することで、あなたは相手が肉体に制限された存在だと宣言していることになるのです。

「あなたはその兄弟の誤りの向こう側を見てはいません。それどころか、兄弟の誤りは誇張され、それが、あなた自身の間違いが及ばない向こう側にあり、あなたの間違いと同じように兄弟の見かけ上の罪の向こう側にある(美しい)自己をあなたが自覚するのを妨げるブロックとなってしまっています。」

私たちは常に自分の中にあるものを相手の中に、すべての人の中にも見ているんでしたね。
私の内側に善きものを見て相手の内側に罪を見ることはできないし、その逆もまた言えるのです。

「知覚は、焦点を持ちます。あなたの見るものに一貫性を与えるのは、この知覚の焦点です。」

半分空のコップを見るのか、半分満たされたコップを見るのか、どちらかですよね?物事はポジティブ・ネガティヴの、どちらの側面でも捉えることができます。きっとこういう絵を見たことがあるんじゃないかしら、若い綺麗な女性のようにも見えるし、見方を変えると年老いた魔女が見えるような絵。同じ紙の上に同じ線が引かれているのに、浮かび上がってくる映像は自分の見方によって違ってきます。


「ただこの焦点だけを変えてください。そうすれば、あなたの見るものは、それに連動して変化するでしょう。今、あなたの視覚は、あなたが以前に用いていた意図に置き換わった新たな意図を支持するために、変化することになります。」

無垢性を見るのか、愛の欠如を見るのかです。

「自分の兄弟の罪に焦点を合わせるのをやめなさい。そうすれば、彼の無垢性を信頼することによって平安が訪れるのを体験するでしょう。

この信頼の正しさは、あなたがほかの人たちの中に彼らの罪を通り越して見るものによってのみ確実に裏付けられます。というのも、もし兄弟の間違いに焦点が合わされていると、それらの間違いがあなたの中に罪があることを証明することになってしまうからです。そうなったら、あなたは、兄弟たちの姿を越えて、その向こう側にある罪のない姿を見ることができなくなるでしょう。」

あなたは自分自身の中の、そして相手の中の善きものを見ることができなくなるんです。

「それゆえ、今日実習する際には、私たちはまず、兄弟の間違いに合わされているすべての卑小な焦点を私たちの無垢性を明らかにするという重大な必要へと入れ換えなければなりません。」私たちが何も壊しはしなかったということを明らかにしなければなりません。

「わずかな間、自分たちが探すのはこれであり、ただこれだけだということを、自分の心に教えましょう。未来のゴールは気にかけません。私たちが自分の意図を変える練習をするこの時間の合間においては、自分が一瞬前に見たものすら、私たちにとってはまったく重要なものではありません。私たちが求めているのは、無垢性だけであって、それ以外の何ものでもありません。ただ今にだけ集中して、それだけを追求します。」

ここでレッスンは非常に明確にこう断言します。
「あなたが自分の過去や未来の目標に巻き込まれてしまうことが、これまで、この探求に成功するうえでの最大の障害となっていました。

あなたは、このコースの提唱する目標が以前に自分の抱いていた目標とはあまりにかけ離れていることにすっかり気をとられてしまっています。そしてまた、あなたは、たとえもし自分が成功したとしても、必ず自分は再び道を見失ってしまうはずだという憂鬱で締め付けられるような思いを抱いて怯えています。

でも、どうしてこんなことが問題になりうるでしょうか。過去はすでに去っているし、未来は単なる想像でしかありません。

このような心配は、単に、知覚の焦点が今変わることに対する防衛反応でしかありません。本当にそれだけです。」

テキストのどこかに、このように述べられている箇所があります。「あなたは未来における損失を恐れているのではない。たった今、つながり合うことを、あなたは恐れているのだ」(T-26.Ⅷ.4)私たちは自分の知覚の焦点を変えることを怖がっているんです。

そこでレッスンは、このように言っているわけです。「いいから、それは忘れちゃいなよ、過去とか未来とかは。そんな的外れな制限はどこかに置いといて、ウチらはあなたが過去にどんなことを信じていたとか次に何が起こるかとか気にしないからさ。たった今、この一つだけの意図を持って実践に取り組むんだ。今に無垢性だけを見ること。」

「そして私たちは、もし怒りが少しでも自分たちの道を塞ぐなら、自分はこの目標を見失ってしまったのだと気づくようにします。
そして、もしひとりの兄弟の罪でも心に浮かぶなら、私たちの狭められた焦点が私たちの視野を制限し、(先ほど言った、魔女の絵みたいに!)自らの目を自分自身の間違いに向けさせ、私たちは、その間違いを誇張して自分たちの「罪」と呼ぶようになってしまいます。

だから、しばらくの間でも、過去や未来のことは忘れましょう。もしそのような障害が生じたときには、自分の心にその焦点を変えさせるための次のような指示を与えることで、障害を乗り越えるようにしましょう。

私が見たいのはこのようなものではない。私は、自分の兄弟を信頼する。彼らは私とひとつなのだから。

そして、私たちはまた、自分を安全に保つことができるように、この考えを一日を通して用います。

私たちは、長期的な目標を追求するわけではありません。」

このレッスンは、まさしく「今」に的を絞ったレッスンなのです。たった今すべての中に善きものを見るという練習です。

「一つひとつの障害が、私たちの無垢性のヴィジョンを妨げるように思えるたびに、私たちは、罪に焦点を合わせることでもたらされて未修正のまま残る惨めさをただ一瞬、手放すことだけを求めます。」

今だけ、一瞬だけで良いのです。

「そして、私たちは空想を求めることもしません。私たちが見たいと求めるものは、本当にここにあるものだからです。

そして、私たちが間違いを越えたところに焦点を移すにつれて、私たちは、完全に罪のない世界を目にするでしょう。

私たちが完全に罪のない世界を見たいと望み、正しく知覚するために私たちがその世界だけを求めるようになったとき、必ずキリストの目が私たちのものとなります。

そして、キリストが私たちに感じている愛は、同じように私たち自身のものとなります。私たちは、このキリストの愛だけを、世界と自分自身の中に反映されている唯一のものとして見るようになります。」

覚えていますか?この世界は鏡です。そしてこれは単に形象において見ることに限りません。私たちの感じ方についても当てはまります。ですから、

「かつて私たちの罪深さを宣言していたこの世界は、私たちに罪がないことの証しとなります。そして、自分の見るすべての者たちに対する私たちの愛は、いかなる罪も知るところではなく、そして、決して自らの潔白さを伴うことなく何ものをも心に描くことのできない神聖なひとつの自己が私たちの記憶の中にあることを証明します。

私たちが今日の実習に自分の心を向けるに際して、私たちは、この想い出を探し求めます。

私たちは、未来を見ることも過去を振り返ることもしません。現在の中へとまっすぐに目を向けます。そして、自分が今求めている体験に信頼を置きます。

私たちの無垢性は、単に神の意志(神の創造物/クリエイション)にほかなりません。

この瞬間こそ、神の意志とひとつになることを私たちが意志する瞬間なのです。」

とてもとても美しい、大事なレッスンです。過去は忘れて!未来のことも!たった今、この瞬間、自分の中の、そして他のすべての人の無垢性だけを見ましょう。

練習をして、美しい1日にしてください。
明日もきっとまた会えるわね。
バ〜イ♪



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