こよなく晴れた青空に
夏は甲子園?音楽のコンクールも夏にあります。合唱やピアノ、いろんなコンペがあります。わたし自身は無縁の世界だなあと思っていましたが、今年は、オンラインで、ショパン国際ピアノコンクールを観ていました。オープンチャットには本当にいろんな人がやってくる。いろんな人が見られるのがいいところ。アジア圏から出場している方にいろいろ書き込む人もいて、気持ちは、炎上していた。
そして、中村紘子さんの映像を見てみました。1965年ショパン国際ピアノコンクールで受賞された時、日本全国が湧いたような印象を受けました。シチューのCMに出ている人って……現実離れしたまつ毛のカールにベルサイユ宮殿に立っても、不自然ではないなあと、思った。それは、日本が戦争に負けたイメージを払拭するような出来事だったのかな、と思います。今まで信じて来たテキストを黒い墨で塗りつぶす、そんな瞬間を体験しなければならなかった時代を超えて、国際コンクールで、評価を得られると、新しい文化を創造していく権利を得たような気分になる。ピアノが一家に一台置けるように経済活動が出来るようになったのさ、という証明にも見えた。
日本を離れると日本で生まれ育ったイエローダンサーであることを思い知る。
10代は、美しさで勝つってなんだよ、自由って何?などと青くさく叫びたい時ではないのかな?そうでもないのかしら。音楽は、とても必要だと思う。
スポーツの勝ち負けと比べると音楽の勝ち負けの正解は、不確かです。スポーツも実は、不確かなところもある。特に判定は。
ある教授が、日本人が弾く音について言及している言い方が、びっくりするほどの言葉を選んでいて、まるでクラシック音楽は、白人の特権的な音楽のような言い方に冷静さを失いました。誰しも差別を受けることもあり、気づくか気づかないかの差で誰しも差別する気持ちがあり、加害者になり得てしまう自覚を持っていなければならないかなと思う。
偶然、BTSの作詞をしている一人の方のエピソードを聞く機会があり、日本語で考えて、訳して書いている。その書き方に驚いた。より、遠くへ音を届けたいと思うのは、より遠くの人ともつながりたい、触れたいと思う気持ち、僕はここにいるよ、という自己認識や承認欲求は、食欲と同じぐらいごく当たり前の欲求だと思う。
音楽に正解、不正解はなく、ただ、そこに、その人の主張がある、ということではないかと思う。
A列車に乗って行こう、で、ピアノを弾いていたデューク・エリントンが泊まれないホテルがあった。そんな事実が悲しい。いま、そんなことあったら、怒れるだろうか。銃を持ち歩けるところで。声をあげることは、とても勇気のいること。
学校では、ひとまず、音楽の授業で、合唱を習ったりアンサンブルを習う機会がありました。合唱コンクールや校歌や君が代の伴奏をする機会があり、誤解を恐れずに書けば、人の歌声ってどこか祈りのようだな、と思う。8/9、11時2分。毎年、考える時間が訪れる。
音楽は、勝ち負けなの?勝ち負けではないから、こそ、勝ち得たいことがある。
義務教育の夏休み、登校日、毎年、倒れるほどの衝撃映像や映画、写真、お話を聞いていた。先生方が、伝えようとしていたのは、わかっていたけれど、理解や共感は難しく、悲しさだけが毎年、心象として残っていった。何ができる?ずっと、そう問いかけられる。
何を継承して、再現するか、それは、どんな言語を獲得して、対話していくことと似ているかな、と、思う。
ショパンの生きた時代を知ることで、より、ショパンに近づいてみたいし、もっと知りたいと思う。ショパンは、どこか和風だなぁと思うのは、箏の譜面に似ているなぁと、脈力なく、ふと思った。まるで、分析なく、つらつらと、オリンピックも終わり、長崎の鐘がなって、雑記。
そして、前々日、Cateen laboで、人種と音楽というテーマで話があり、ゲキあつな問いかけに、あれこれ考え始めてしまった。
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