記憶の行方#ノヴェンバー・ステップス

直訳すると……訳する必要もないか。

中学校の音楽の授業で、武満徹さんの作曲した「ノヴェンバー・ステップス」を鑑賞する。当然、テストに出ますよ。そんなわけで、YouTubeの小澤征爾さんの指揮した「ノヴェンバー・ステップス」は、案外10代のこども達に聴かれている。教育委員会のセンスで、伝統芸能に触れることも多々ある。偶然、学校見学で給食の時間、何が放送されるか、気になった。いろんな地域で、車に乗っていて、まず、聴くのはラジオなんですが、ラジオでどんな曲がオンエアされるか、で、なんとなく、街のノリ、リズムが少し聴こえてくる。学校では、校内放送で何を流しているか、案外、ノリがわかります。

その学校では、尺八や津軽三味線の演奏、矢野顕子さんのモノマネをしながら弾き語る音楽の先生の演奏、もうそれは、先生の趣味まっしぐらのジャズ、そして、花笠音頭が放送されることもあり、面白くて、給食も大事ですが、聴いてしまった。星野源さんの曲は、「sun」が流れていた。吹奏楽部で演奏したりしているそうだ。「創造」も、これから演奏曲目になるのだろう。初々しい!「創造」を聴いてみたいものです。

とある公会堂で、校内の合唱コンクールを聴かせていただく機会があり、校内でしか、やれないやむにやまれぬ事情は、聴く側も重々承知しており、ディスタンスだらけの客席は、むしろ、贅沢な空間だな、と思いました。本来ならもっと、聴いて欲しいところですが、身内の楽しみを優先することも大事にしてよいかなぁと、いい方へ解釈した。全く無縁ではないのですが、うぁー、もう、このメンバー、この歌声は、今、だけのものだなぁと思うと泣けてしまう歌声。おばちゃんは涙腺がゆるみます。

さて、武満徹さんのこと、一瞬、谷川俊太郎さんと見間違える風貌の武満さん、多くの映画音楽に携わっていらっしゃるのですが、「切腹」、「暗殺」、「怪談」、もう、タイトルだけで、怖い。安部公房原作の映画「砂の女」などなど、映画を観ていて、音楽が気にならない映画音楽の作り手の一人だと思います。

けれども、

現代音楽の範疇で語られることが多い武満さんの曲。

よくよく聴いたら、自然の息遣い。そんなこと言ったら、

「大木みたいな人がいいんだよ」

といった後に

「なんだよ、それ、よくわかんない」

と、思春期男子の冷めた目で言われるようなことが起きる。比喩表現には気をつけたい。伝わらないから。

武満さんの何に一番共感するかと言えば、普段、環境の音をよく聴いていらっしゃったことです。ノイズも環境音ですが、風のざわめき、春の小川の流れ、木々が揺れる、波間、などなど、自然の音を聴いていらっしゃった。

「ことばの爆発」という成長過程がある。ってなことは、保育や赤ちゃんの脳、なんて調べたらすぐにわかることなんですが、こどもは、脳のシナプスのいらない!と思うところを判断して刈り込む時期があり、そして、必要と思うものを残す。多くのこどもは、ことばを表出するために必要な回路を残す。と、いわれますが、果たして本当にそうなのか?

子はことばも選んだが、勝手に自前の歌を歌っていた。誰にだって音を紡ぐ瞬間がある。それを記憶しているかどうかの違いではないかなぁ。

と、ぼやく程度にしておこう。

個人の経験とは、あまり誰かの役には立たないものです。

武満さんは、音そのものをメロディにして表出することも残され、一体どんなこどもの時期を過ごされたのでしょうね。もっと知りたいと思います。

偶然、お孫さんと遭遇して、急に武満さんの曲を聴いてしまった。きっかけとは、そんな些細なことだったりします。

音楽はボーダーレスで自由なもの、壁や時間を超えていくメロディは、世界の共通言語だと思います。

ガーシュインの「ラプソディー イン ブルー」を聴くと本当に自由だなあと思う。

もしもタイトルが「アメリカン ラプソディー」だったら、ヒットしなかったかもしれませんが、ヒットしたかな、どうだろう。タイトルのネーミングは、かなり大事な要素だと思う。

コンサート「現代音楽の実験」を実質、コーディネートしてしまう記事を書いたポール・ホワイトマンに感謝している。まあ、どうあがいても、本人には届きようにないのですが。

ガーシュインの当時の新曲には、ブルーノートのスケールで完成させたところに、散文を楽しむガーシュインのこどものような姿を想像しました。

曲のタイトル「ノヴェンバー・ステップス」、これは、かなりポップな題名で、聴いてみたいと思う。小澤征爾さんの指揮がいいんですよ。これがまた。


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