「音楽は自由にする」〜in Cについて思うこと

「音楽は自由にする」とは、坂本龍一さんが残している本のタイトルなんですが、その本にテリー・ライリーに触れている一文があった。偶然だけれど、先日、講座を聴くことができた。ラッキーでした。

コンピュータおばあちゃん♪ が、「みんなのうた」で、オンエアされる頃、なぜか聴いていて、結構好きな曲なんですよ、って話した時に、誰の作曲か、気にせずにいたのですが、目の前でニンマリしていた人を思い出していた。

昨日、国立音楽大学で行われていたテリー・ライリーの作曲講座の帰り道にその曲を教授が作ったんだと、そして、ドラムは高橋幸宏さんだったと知った。いまさらかっと、笑えたのですが、こどもの頃、無意識に聴いた曲って、覚えているものです。

カシオの記念館に見学に行ったら、幸宏さんも来ていたお話を聞き、うれしかった。カシオといえば、高橋悠治さんのデッカいコンピュータ?マシン?キーボードなんこれ?といった、どでかいスピーカーなどあり、……音楽により、いろいろ、つながっていたり、重なっていたりいるんだと思う。

「音楽は自由にする」とは、教授がいかに、恐怖に慄き、逃げ出したい気持ちがありつつも、そうできない不自由さの中で、音楽により、自由になって来たんだろうな、と、思って読んでいた。

誰かを送り出す、送り出した残された者たちへ、「葬送」は、送り出す音楽のようですが、送り出す側の人々への音楽でもあるな、と、思う。

浜松の楽器博物館で、シンシンという楽器を発見して、シングシングが、シンシンになるわけで、パプアニューギニアの笛の音を聴き、松丸さんがなぜ、サックスを選んだのか、説明がいらない気がしている。なぜかは、今度、聞いてみたい。

「スーホの馬」に出てくる馬頭琴は、馬の一部でできており、ガムランでは、牛の角でできた、スティックで叩く。木管楽器か、打楽器か?
木をくり抜いた打楽器には、人の形をかたどってあり、楽器やその音を眺めていて、なんとなくですが、人びとが、人の死に向き合って、悲しみを受け入れる日常になるまでに、音楽が必要だったんだと思っていた。

少しずつ、音がずれているけれど、テンポの間が、一定で、あら、これは、ガムランですが、ガムランの音階は、昨日聴いたテリー・ライリーのin Cみたいだ。

そして、長崎のジャ踊りでも、このぐわーんとして、金属音や銅鑼の音を聴いて、あのお祭りの時期は、爆竹をならし、花火をあげ、ランタンで死者を送り出すのでした。なかなか、激しい送り出し。そんな幼い頃の記憶を辿りつつ、

ゴーン、となる除夜の鐘や
リンゴーン、となる、教会の鐘、
オルガンのドローンとなる長く響きわたる、
いろんなところでゴゴーン、と、なる、音の輪は、

何も語らず、人の中や外に響く音で、何も語らないから、いっときの間、人をつなぐ、それは、いいな、と、思う。

かたちあるものは、花だけで。
消えゆくものを少しだけ、音のかたちとして、ほんの少し残す、それが音楽なのかもな。

「もう、飽きた」と、帰っていった学生もいたけれど、テリー・ライリーの一言一言に、答えようとしたりして、学生の皆さんの最後の演奏は、よかったです。シロフォンが面白いなぁと聴いていて、印象に残りました。
ハーモニーを作るって、響くって、相手の音を聴けるかどうかってことで、人に見られながら、楽しんで弾くって、ね、案外恥ずかしいことですから、その恥ずかしさを通り越して、楽しいところへたどりつけるのかも……と、思った。

作曲講座では、八分音符を感じて、どこからでも入っていい、少しずつ、ずれてね。ふんふふーん♪と、鼻唄を何度も聴かせて、グルーヴって何なのかってことを、照れながら、伝えようとするテリー・ライリー88歳。音楽により自由になって来た人なんだと思う。

新月が楽しみになって来ました。

「譜面でなく、人と目を合わせて、楽しんで、さあ、groovy time」(テリー・ライリーの言葉より)


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