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O mio babbino caro(私のお父さま)⑨

実家に戻って1年間だけ、
両親と暮らすことになった。

私は、2回生の時に知り合った先輩(今の夫)と、研究科(2年間)を卒業したら結婚する約束をしていた。

付き合い始めた頃から両親には彼の話をしていた。
意外にもあっさり認めてくれたけど、
本当のところはどう思っていたのかわからない。

「とりあえずは1年間ね。」

遠距離恋愛になってしまったので、
“会いたい気持ちが愛育てるのさ〜♪”と同時に、
本当に続くのか、私も自信がなかった。

こうして実家で期限付きの生活が始まったわけだが…

3年ぶりの我が家。
母は家中汚し放題。
おまけに不良気質で、帰宅はいつも午前さま。

父の具合は行きつ戻りつ。
どうやって励ましてもネガティブなことばかり言う。
会社に行っても早退する毎日。
私は弱りきった父の姿が情けなく
泣けた。

厳しかった父は何処へ…
もう、私がピアノを弾こうが弾くまいが関係なかった。

今思えば、元々口数の少ない父は家族の誰にも言葉に出すこともなく、
病気と必死に闘っていたのだ。
毎日毎日、熱が上がったり下がったり。
会社に行ってもいつ具合が悪くなるかわからない…
怖さとも闘っていたのだ。
ひとりぼっちで。

けれどあの頃の私は、怒りすら感じていた。
しっかりしてよ!!

家の空気はすごく澱んでいた。


そんな鬱陶しい日々が続いたある日、
母が倒れた。

くも膜下出血だった。
病院から電話があり、
出血がひどく、手術できないかもしれない。
とにかく親戚や会いたい人に連絡を。
と言われた。

父はさらに萎れた。
とても哀れな姿だった。

母は手術はできたが、意識がないまま
1ヶ月が過ぎようとしていた。

「このまま植物状態になるか、酷い出血だったため、後遺症は残るでしょう。」
と医師から告げられた。

病気の父と、どうなるかわからない母。
私は結婚を諦めた。

が、しかし、
1ヶ月が過ぎたある日、
母の腕がピクッと動いた。
翌日、足が動いた。
声にならない声を発した。

意識が戻って何か喋り出した。
…しかし、記憶がない。
何か喋ってはいるけど、どうやら子どもの頃に戻っているようだった。

そして、やがてベッドの上でハイハイし始め、もう…大変だった。

さらに1ヶ月が経った頃、
再び手術した。

すると途端にいつもの母に戻った。
何の後遺症もなく完璧に。
39年前の8月31日から12月28日。
怒涛の4ヶ月だった。

家に母が戻ると、父は本当に嬉しそう。
久しぶりに父の弾ける笑顔を見た。
「オレもしっかりしないとな」

父はこれを機に元気になった。
心臓や術後の内臓に不安は残るが、ツキモノがとれたように父も回復し始めた。


















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