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O mio babbino caro(私のお父さま)⑧


父はあまりピアノの話しをしなくなった。

身体に自信がなくなった父は、
途端にお金のことを心配しはじめた。

当然、編入の話は無くなった。

短大の2年間では、音楽はおおよその基礎の知識を詰め込むだけ。


2回生になり、私の音楽に対する思いは入学前とは180度変わっていた。

もっと勉強したい。
編入がダメなら、研究科に残りたい
と思った。


父は入院し、手術を受けることになった。

私は、卒業演奏会出演と研究科進学がかかった試験のために、
不安ながらも集中して練習した。


無事合格し、演奏会にも出られることになった。

気持ちよく授業料を出してはもらえず、父に3分の2ほど出してもらうことにし、残りは春休みにアルバイトをして払った。



晴れて私は研究科1回生になった。

一家の大黒柱が倒れ、元々あった家庭内の綻びが次第に大きくなっていった。
我が家は両親と妹の4人家族。

母は私のピアノには全く興味が無い。
妹は浪人中。大学受験を控えていた。

父が病気をした事で、家庭内の溜まっていた膿が少しずつ出はじめたようだった。


手術が済んで数ヶ月経つのに、傷がなかなか治らなかったり、検査時のカテーテルで大出血を起こしたりして、なかなか体力が戻らなかった。

そして父は、何より心のダメージが大きかった。
強いと思っていた人が、メソメソと弱音ばかり吐く。
なかなか仕事に完全復帰できずにいた。

母は、そんな父を嫌がった。
バリバリ仕事している人だったが、ますます気持ちは外に向いた。

父はどんどん不安になり、
「死にたい」という言葉を口にするようになった。

「お父さんさ、死にたいってばっかり言って、お母さん一人じゃどうにもならないから、あんた学校辞めて帰ってきてよ」
ある日、母から電話があった。
初めて聞く母の困った声だった。

最初は何冗談言ってるの?と思ったが、
後に父から直接電話をもらったときには情けなくて泣いた。

母は、あんたは充分(お金)かけてもらったからもう良いでしょ、と言わんばかり。
東京で浪人生活を送っていた妹も、露骨には口に出さなくても、充分伝わってくるものがあった。


研究科中退。
最後の試験は、ブラームスのピアノソナタ3番を弾き、1番を頂いた。

春休み、慌ただしく音楽教室の講師の試験を受け、実家に戻ることになった。
悲しく惨めな引っ越しだった。











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