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傷つくこともできない私たち

傷ついて、涙が枯れるほど嗚咽して、絶望して途方にくれて、でもその時に、いやそのときだからか、その絶望の後にぽっかりと灯る、確かな命のきらめきみたいなものを感じたことはあるだろうか。強がって無理して、自分をどこか失って、空回りしている時よりもひどく苦しいのに、それでもその曖昧な状態よりも、よっぽどましなところに来たと思えてくるような、もっとも悲痛なその物事の一番深いところにたどり着いてしまった人生の節目に、私はなぜか毎回安堵する。とっくにもうパワーがなくなってしまったと思っていた私は、まだこんなにも傷つくことができて、涙できて、必死で何かに、しがみついて生きようとしているのだと。

私たちは、傷つくことを恐れるあまり、傷つくことすらできないで、毎日を生きている。そして、真に傷つくよりも、そういう時が大抵一番辛い。傷つくことができないから、終われなくて。決定的でもないから、誰かに泣きつくことも、思い出にすることもできなくて。喪失と再生の激動の瞬間は、自分という人間が色濃く刻まれる、忘れ得ない人生の大切な節目になるけど、決定的にならない、ごまかし続けた日々はただ失っただけの日々でしかない。そして、そういうところで、それでも必死に我慢してそこに立ち続けられてしまうだけの自分に、長い時間をかけて私たちはなっていく。それが大人になることだと言わんばかりに、自分を追い込んで。色んなものを無視して忘れて。何度でもそんな穴に、自分でも気づかないうちにはまってしまう。

この場所に来て2ヶ月。私は、ひどく自分が自分を守ろうとしていること、そして自分は大丈夫だと言い聞かせようとしていることに気づきだしている。この大自然に私は癒されてもいたけれど、でもどこかで私は、自分自身のガードみたいなものを外せないでいた。それはとても些細なことなんだけど、初対面の人とのやりとりとか、みんなとの中の自分とか、過去のキャラクターを生きている感覚とか...自分が取りたいような行動と言動が取れないような、そんな感覚が日増しに強くなっていった。その中で焦っていて、「これってこうだよね、わかっているよ」、「こうするべきだよね」と自分を自分で規制しているような感覚だった。考えてみれば、頭でぐるぐる考えているだけの、言葉にできない本音や弱音のいかに多いことか。自分で自分をどこか納得させることが少しづつ目立つようになっていた。

こんなにも開放的な大自然の中で、こんなにオープンなキャラクターでいながら、本当のところでは自分だけが最後の最後で、肩の力を抜けないで、誰にも心を開けないでいた。それに気づくまでも時間がだいぶかかった。それは、会社にいる時の自分とも何かリンクするような気もした。結局のところ、そうやって傷つくこともできない時間を過ごしていたと気付いたから、私はいっそのこと独立を選べたのだと、今は遠い南の島で思う。

だからいつだって、言いたいことを見事なまでに、華麗に言い当ててぶつけてくる娘に私は嫉妬さえ覚えそうになる。今の暮らしは、住んでいる家のオーナーのおじちゃんとそこのスタッフのお兄ちゃんが週に2−3日来てくれる暮らし。海があって開放的だけど、単調な暮らしの中で娘と2人で過ごし続けることは、ストレスだってもちろんある。家事をするのも、世話をするのも、遊ぶのも、全部相手は基本的に私な訳で。

「ママ、遊ぼう〜」と言われ続けるのに、滅入ってしまったある日のこと。午前中も遊んだし、昼寝も短かかったし、やりたいこともあるしで、その中で声を荒げてくる娘に、「ママもやることあるんだから、ずっと遊ぶなんてできないよ!」と私も声を荒げると、きょとんとして、「いーーー」とみるみる顔を歪め、おいおい泣きだした。私だってもう収まりつかないから、意地はってイヤホンして二段ベットの一階に座って珍しくパソコンをパチパチ。そしたら5分くらい全力でずっと泣いて、止まらない。さすがにかわいそうで、「おいで」と言っても岩のように動かない娘に、立ち上がって手を伸ばす。熱くて、汗かいて、熱がたくさんこもった英が、私の手の中で吠えるようにまた大きな声で泣く。弾けるように。

抱きしめて、笑っちゃって、「もー、大丈夫よー。ごめんごめん」とトントンする。しばらくして落ち着いた英は、私に向き直り、しゃんと私を見て、「もう怒らないで」という。「もうこれから先、怒らないで」、と。だけど、そんな約束できるだろうか。「うーん、でもそれはむずかしいでしょう?」というと、またしっかり泣き始めるので、飲み込んで見ることにした。そんな無謀で、純粋な要求に答えてみることに。そうなったらいいな、という希望的観測で答えた。「オッケー!わかった、頑張ってみるね」と。英が強くこの瞬間に私に願ってくれた、あの強さと大きさで、英を怒らないことに今この瞬間、トライしてみたいと思えたからだ

大人になると、約束をすることに対して、それが現実的に果たされるかばかりが気になってしまう。大それた約束なら、破られる約束なら、しないほうがいいとほとんど自然に私たちは思っている。でも、子供は本気で求めてくる。果たせるかどうかよりも、今どういうつもりなのかのほうが、彼らにとっては大事なのだ。私はそんな体当たりの気持ちをぶつけられて、私たちが果たせなそうな約束をしないのは、そうなったときの未来辛いから、つまりは保険なんだということをそっと知る。だから、そんなとんでもない約束を求めてしまう、その現在(いま)を純粋に生きる心が美しいなぁと思う。果たせるかどうかよりも、今心から願う言葉を交わそうとすること。傷つくことを恐れていない。というか、関係ないとすら感じる、その潔さ。

大人だってそれでいいのになぁと。それがいいのに。私たちは、大人になって、想定される未来やリスク、論理的な説明の範疇からでられずに、直感的な何かを信じられなくてもがいている。2歳の子供の彼女には、「明日」も「また今度」もない。今一緒にいたい。今それがしたい。今辞めたい。そのスパっとした物言いに、大人の私はむしろ憧れてしまう。ああだこうだ言って、決定的な何かが来ても、耐えられるだけの準備をできるようになった私たちは、こんな風に子供だった私たちよりも、強くなっているだろうか。私はというと、36歳になって、これだけ年を重ねて、到底そんな風に思えなかった。

傷つくことが、ーそれほどに誰かを信じたり、何かを目指したり、素直になれたりすることがー、ことのつまりそのまま、「生きていくこと」ではないだろうか。人生はゲームの攻略ではなく、物語だ。先回りして、これはこういうことでしょう、と予測して、何かを回避したところで、かけがえのない物語は生まれない。いいことも、そうでないことも、全てがあって、その物語は深く広く未来へ繋がっていく。独立前の私、この場所で暮らす私が、いろんなことを知ったように強がって、「そうするべきではない」、「今はこうしたほうがいい」と、1人で結論付けた日々が辛かったのだと痛いくらいにわかってきた最近。

人生はパターンだと人は言う。でも、でも正確にはいつでも新しい人間に変化し続けているから、常に初めてのことしかなくて、「わかっている」、「こういうことでしょう」と、自分に言い聞かせることは、大人になることのようでいて、その実そうでないと私は思う。私が苦しかったのは、そういう知ったかぶりをして、今の自分と関わり続けた日々。でも、傷くこと、悩めること、もがくこと...その、鬱蒼とした暗さや、だからこそ浮かぶきらめきに、何度でも足を踏み入れられる自分でありたいと思う。言いたいけど言えないことを言って、勇気がないとできないことをして。もちろん、無防備に傷つくことを望んでいるわけじゃないけど、でも安全圏でできること・わかることに囲まれた、傷つくこともできない人生を、私は望んだりしていない。

いろんなものがまた、動き出した。また周囲と新しい関係が始まっている。私はやっぱり、少女のように・ロックのように、生きていきたいと願う。

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