見出し画像

もう会えないあなたを知り続ける

記憶のなかの父は、怒っている。

10歳のとき、わたしは父に連れてきたもらった近所のボウリング場を、3つ下の弟といっしょに抜け出した。ボウリング場に着いてから割引券を家に忘れたのを思い出し、「少し待ってなさい」と言って取りに戻った父を、数分後に追いかけたのだ。気持ちよく晴れた日曜日の午後の風のなかを、懸命に走った記憶がある。けれど結局追いつけず、別の道から帰ってきた父と入れ違いになって、散々探されたあと「どうして待っていなかったんだ、警察を呼ぼうかと思ったんだぞ」と、こっぴどく叱られた。

まだある。

負けず嫌いだったわたしは、家族と公園でボール遊びをすると、いつもムキになった。とりわけドッジボールは、絶対に勝つぞと目をぎらぎらさせる。一度、父がわざとらしくふざけた顔でわたしにボールを当てたとき、頭にポコンと当たったことがなんとも滑稽で、悔しくて、やめてよぉ! と大声で泣いた。泣いて泣いて、父が謝ってもわんわん泣き続けて。すると父はやっぱり怒って、「いい加減にしろ」と煙草を吸いに行ってしまうのだ。その後わたしは母に促され、なんで謝らないといけないんだ、と不服な顔で「ごめんなさい」をする。

まだある。

家族で珍しく外食した帰り道。父も母もご機嫌で、帰りのバスでは「コンビニでアイス買おうか」なんて話していた。しばらくして弟が「僕が”降りるボタン”を押したいな」と呟いた。弟は控えめな性格だったので、父はその珍しい主張を叶えてやろうと「お前は押すなよ、押させてやれよ」とわたしに言った。わたしは「ハイハイ」と面倒そうに応えたけれど、最寄りのバス停で躊躇なく降車ボタンをポチり。(当時、泣き虫な弟が気に入らず、なにかと意地悪をしていたのだ。)鳴り響いたアナウンスに弟は一瞬ポカンとしたあと、顔をくしゃりと歪ませ「押せなかったぁ」と泣いた。次の瞬間、父からゲンコツが思いきり頭に落ちてきた。ゴン! 漫画みたいに、目から星が飛び出るかと思った。そしてひどく怒られ、その後のアイスは私だけ買ってもらえなかった。

このようにわたしは父をたくさん、そして真剣に怒らせてきた。いま思えば恥ずかしい、情けない、アホだなと思うようなことで。怒らせたかったわけではないのに怒らせてしまったのは、わたしの失敗だ。子どもの頃だけじゃない。わたしは大学に入ったって、同じように父を怒らせ続けていた。

でも、失敗は取り戻せる。いつからだって遅くはない。気づいたときに省みて、今に活かして、「あの頃はさ」なんて笑うことだって、できる。大抵の場合は。

でも、人生には取り戻せない失敗もある。父はもういないのだ。18歳の秋に、病気で他界した。

こんなに早く死んでしまうなら、もっと怒らせないで、笑わせたかった。今さらどうすることもできない後悔に、たくさん泣いた。そして、時間が経つにつれて父との思い出が薄れることもまた、悲しくて、寂しかった。「これ以上、なんの思い出も忘れませんように。」そう願いながら、それでも多くのことを忘れ、6年が経った。

皮肉なことに、自分が失敗し、恥ずかしい、つらい思いをした出来事は、忘れずによく覚えているものだ。特にわたしはプライドが高くて、負けん気が強かったから、なおさらだ。父との思い出においても例外ではなく、多くの思い出を忘れたなかで、失敗の記憶はいまだに色濃い。だから、今ある記憶のなかの父は怒ってばかりで、怒らせたことを思い出しては落ち込んでいたけれど、最近ではそんな思い出だって残っていてくれるのが嬉しいと思えるようになった。

だって、そのおかげで、父の優しさや想いを知ることができるのだ。

ボウリング場で再会した父の顔を覚えている。見たことのないような安堵の顔だった。父は、わたしたちが心配で心配で仕方なかったのだ。少しの間でも2人きりで置いていった自分を責めただろう。父は、不器用だったけれど本当に優しくて、家族思いだった。

ドッジボールだって、父は家族を楽しませたかっただけなのだ。
ゲンコツだって、姉弟仲良くしてほしくて、落っことしたのだ。

あのときはわからなかった。でも、だからこそ失敗として、ずっと心に残り続けた。そして今、あの頃より大人になったわたしは、父を少しずつ理解することができている。失敗に紐づく、父の大切にしてきたことを、時間を超えてようやく受け取りつなぐことができる。

父、ありがとう。(それから子どもだったわたし、ありがとう。)
あの失敗があったから、わたしは今日も、あなたのことを知り続けている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?