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「梅にうぐいす」花屋の向こう側

すべて調和か統一かが大切だ。そして、季節のいちばん感じられるものがいいとわたしは思う。
北大路 魯山人

北大路魯山人の随筆に『梅にうぐいす』があります。

ある日のこと、魯山人に教示を受けようと訪ねてきた女流歌人がいて、「材料の取り合わせ」について聞いてきた。翁は、相手は歌人だから、歌に寄せた説明をしようと考え、そこで「うぐいすの歌を作るとき、あなたなら何を配するか?」とたずねる。「うぐいすにはさしずめ梅であろう」と続けると、その歌人は「それはまた陳腐ではありませんか」と答えた。その返事に呆れた魯山人は言いました。

「梅にうぐいすということは、言葉の語呂のよさでもなく、絵描きの都合上そうなったのでもない。やはり、うぐいす自身の自由な意志で、梅の木に止まるのですよ。それを見た絵描きが、いつもうぐいすが梅に止まるので梅にうぐいすを描いた。他の絵描きも描いた。年々このようにして梅にうぐいすが描き継がれてきた。歌人もこの事実を歌った。そして、幾春秋、梅にうぐいすは一つの真実の美から、概念の美になってしまった。

あなたは新しいものを歌おうとされる。だが昭和のモダーンうぐいすもやはり梅の木に止まる。あなたが概念に囚われて机上で歌を作ろうとするから陳腐なのであって、あなた自身の目でこれを見て、感じて、歌われれば、決してそれは古くはないはずです。どうです?」(中略)

「魯山人の美食手帖」『梅にうぐいす』北大路魯山人

真実を表現するためには「真実を見出だす」必要がある。これまでの概念に囚われて、新しいとか古いとか、やり古された真似ごとばかりをするから、それは陳腐になるのだ。真実を少しも見ず、聞かれて返事のできないようなことなら、やらないほうがいい。

梅にうぐいす。これだけ聞けば「そういうものだ」と、疑う余地はありません。けれど梅にはその年の、鶯にはその日の、その時々の趣があり、それに動かされる心があり、味わう楽しみがある。そのようにして、人が好むところには調和がある。これが真実です。

傲慢毒舌で悪評高かった魯山人ですが、この説法を読んだ時には、自分のしごとに置きかえれば尚、響くものがありました。

既成の事実にとらわれて、真実に気づけていないのではないか。過去の経験に引っ張られて、今に調和していないのではないか。

真実に調和あり。真実とは。今日もいちりんあなたにどうぞ。

紅梅 花言葉「あでやか」



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