The Diary Of Saki Kato/加藤咲希の日記 June 22nd 2022 ターキッシュ・エアラインズの中で
私は今この文章を東京からイスタンブールへ向かう飛行機の中で書いている。日本人は皆マスクをしているが、ターキッシュ・エアラインズの客室乗務員の誰ひとりとしてマスクをしていない。
私は今年の3月14日、いわゆるホワイトデイにCOVID-19を発症し、肺炎以外のひととおりの主要な症状は経験したように思う。急性の症状は、40度を超える発熱、全身の痛み、割れるような頭痛、味覚障害、嗅覚障害、じんましん。後遺症としては、倦怠感、頭痛、吐き気、気圧症、そして脱毛!脱毛だけはなぜだか起こらないような気がしていたが、きっちりと発症から2ヶ月半後に始まった。最初は驚いたし、洗髪をする一連の流れの中でも、さっと櫛をいれるだけでも、とにかくごっそりと毛が抜けるので、さすがにどきどきした。自室の床やベッドはすぐに髪の毛だらけになる。夏を迎えつつあるうちの猫みたいだ。私が自分は夏を迎える猫なのだ、と思うことにした。それから、髪が徐々に失くなってしまう、という悪夢を見なくなった。
毛髪に影響のある抗がん剤を使用する者が一気に全てを剃髪する意味がわかる。見た目のこともあるが、気持ちのこともある。徐々に失うより、一気に失って、いや、失うのではなく、あえて自らスタイルを変更して、新たな自分になる方がよい。美しくセクシーでとても魅力的なシェイブドスタイルになった女性を知っている。
ただ懇意にしている美容師いわく、私の場合は、この減り具合が一定して続いた場合、元から髪が多めなので、元から髪が少なめのタイプの人のような頭髪の状態で治まる可能性がある、とのことなので、まだ行く末を見守っている。いざとなったらシェイブドヘアにして、ウィッグでいろいろなヘアスタイルを楽しむのも大いにありだ。
COVID-19におけるこれらの後遺症はなぜ起こるのか?脱毛よりも、何よりも、日々の倦怠感、吐き気、気圧症が辛かったこともあり、自分なりに調べたり、医療関係の方に伺ってみたりしたが、どうやら血管の炎症が関係しているらしい。ウィルスが体内に入ってきたときに、戦うのは血液、白血球なので、戦いの最中に血管では大変な炎症が起きている。その戦争の後、特に繊細な毛細血管には戦禍が残る。だから血栓症も起こりやすくなり、髪の毛も抜けていく。倦怠感も気圧症も、血管の機能が落ちていて、ちょっとした気圧の変化に血管が大きな影響を受けることに起因しているらしい。私の体はほんとうによくやった。よくがんばった。狂騒の2020年代の通過儀礼のひとつを生き延びたのだ。
たった今、乗客の中に病人がいるので、医者、医療関係の人間はいないかとのアナウンスが入った。気がつくと目の前の通路に人が横たえられている。彼に祝福を、無事を祈る。
私は神経症と、体操の影響で(高校のときは体操部だった)腰はやったけれども、そして流行には乗るタイプなので豚インフルエンザにも鳥インフルエンザにも罹ったけれど、骨を折ったこともないし、大病と言われるようなものには罹ったことがなかった。季節性のインフルエンザで高熱が出ることもあったけれど、すぐに治っていたし、もちろん後遺症などもなかった。なので今回のCOVID-19が、私が人生の中で初めて経験した大きめの「病」ということになる。
発熱はがん細胞を消すらしいし、発熱後はなんだかすっきりしているし、肌も綺麗になるし、腰の痛みも和らぐので、治療ではなくて症状を緩和するだけの対処療法である解熱鎮痛剤は基本的には飲まないのだが、今回は飲まずにはいられなかった。
ちなみにたった今私は五苓散という漢方を飲んだ。上空にいることによる気圧変化によって頭痛が始まったからだ。五苓散は魔法のように気圧症に効く。
そして先ほど倒れていた彼はゆっくりと数回まばたきを繰り返してから立ち上がった。大事には至らなかったようだ。12時間12分のフライトの続行が決定した。
40度を超える熱が始まり、痛みが脳と体に疾り、すごく寒くて、すごく暑い、と私はひとりごとを繰り返していた。Tシャツもショーツもシーツも汗でぐっしょりになり、朦朧としながらも15分ごとに着替えないといけない。500mlのペットボトル入りの水と経口保水液は一晩に8本は消費した。
私は何もこわくなかった。皮膚が暑くて寒くて不快すぎるのでかろうじて朦朧と着替えることはしたが、それ以外は何もできないので、思考実験で遊んだ。自分の死を想定した。私の人生の中の、主要な登場人物たちの顔が浮かんでくる。あの人は大丈夫、あの人も大丈夫、あの人も、あの人も、私が死んでも。それぞれの登場人物たちへの遺言は母に頼むことにする。
二人だけ、私が死んだら、ある程度は大きな影響を受けるだろう、という登場人物がいた。さらに、そのうちの一人は、悲しむだけでなく、私がその人に渡すべきだったものを渡せずに、道半ばで終わってしまう、と思った。そこだけが心残りかもしれない、と思った。
そんなときでも、私は友人からLINEがくれば簡素な返事をしていたのだが(今熱が40度超えてるんだけど、体温計壊れてるのかな?笑、みたいな感じで。私はたぶんこういうところがちょっとだけおかしい)、いや普通に薬を飲みなさいよ、とまともなことを言われ、確かにこれは限界に近い、とプラクティカルな思考に一瞬戻れた私は、すごーく久しぶりに、最後に飲んだのはもう思い出せないくらいの解熱鎮痛剤を、カロナールを(解熱鎮痛剤の中では弱い部位に入ると思うけれどコロナ発症時に他の種類の解熱鎮痛剤を飲むときは医師に相談してくださいね、ロキソニンとかよくないらしいですよ)口にした。
久しぶりの解熱鎮痛剤は驚くほど効き、40度以上あった熱が一気に38度台に。動けるようになった私はこの隙に!とばかりにシャワーを浴び汗を洗い流して、レコーディング延期の業務連絡をほうぼうに打った。辛すぎて痛すぎて眠ることも、苦しくて物理的に横にもなれなくて座っていたのだが、薬を飲んでからは横になって眠ることもできた。次の日は頭が割れるかと思うほど、という表現があるが、ほんとうに割れるかと思うほど痛かったので、もういちどカロナールを飲んだ。そして急性の激症自体は徐々に回復していった。その後、上記のように現在まで後遺症は続いているが、こちらも徐々に和らいできてはいる、最近始まった脱毛以外は。
それでも思うのは、やはり、狂騒の2020年代の通過儀礼のひとつが無事に(だって生きてるからね)終わって、ほんとうによかった、ということだ。大切なことがわかったし、きちんとやり遂げた自分の体をもっと信頼できるようになった。後遺症の直撃中に決行したお友達のリッラフリッカさんのレコーディングもすごいことになって、よい人生経験になった。こちらも大切なことに気づかせてくれた。このときのエピソードはまた別にしたためようと思う。
ターキッシュ・エアラインズの機内食にはフェタチーズとこれでもかとばかりの大量のフムスが。デザートのケーキはこれでもかとばかりに甘い。幸先のよいスタートだ。
日本時間は現在1時11分、トルコ時間は19時11分。客室内の灯りが消された。少し休んでみることにする。生き延びたからにはできることをやる。
人を愛し、世界を愛し、感じ、歌を歌い、詞を書き、文章をしたためる。
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