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人生を進める儀式 2024.07.19


なんとなくで書き始めたこのnoteの朝日記、気が付くと「中年になり体力がなくなってつらい」と「ひとりで引きこもって好き勝手にしたい」ということばっかり書いている。

いやまあ一応は車を買った話とか着物にハマった話とかもしてるんだけども、大枠としてはこう、「人生中盤のエネルギー低下をどう取り扱うか」みたいなことが最近の関心ごとらしい。

日記は自分と対話するツールなので思考が内向きになるのはある程度仕方がないのかもしれないが、あんまりそうなりすぎるのもな〜と思わなくもない。もうちょっと自分の外側にあるものにもフォーカスしてみてもいいのかもね。

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今朝は久しぶりに早起きができて、スカッと晴れて気持ちがよかったので、コンビニコーヒー片手に近所をうろうろ散歩していた。

都心の大通りに接する住宅街なので、大きな公園などもなくぼーっとする場所もなかなか見つからないのだが、近くに小さな神社があったことを思い出して立ち寄ってみる。ちょうどよくベンチがあったので一息つくことができた。

東京の街には本当にベンチが少ない、なんて話はよく聞くけど本当にそう。
「排除アート」の話とかを見ても思うけど、日本の都市や街のデザインは人にいてほしくないのかな? って感じることが多い。

最近の街の再開発を見ても、どんどん街のお店がビルの中に押し込まれて街が縦に伸びていっていて、地上の道をぶらぶらさせてくれない。雑多なものが集まった商店街や自由にブラブラできる通り、好きなんだけど減っているなーと思う。
こういう街の作り方と、住環境の貧しさの感覚はつながっている気がして、人間の居場所のあるべき姿とは? みたいなことを考えたりする。


神社でしばらくぼーっとしていたら、そういえば私はけっこう神社という空間が好きなんだった、というのを思い出した。

近年はすっかり年始の初詣くらいしか行かなくなってしまっていたが、独身の頃はよく仕事や創作に煮詰まると近所の神社まで行ってぼやっと過ごしたものだ。

当時は代々木上原駅と代々木八幡駅の間あたりに住んでいて、代々木八幡宮というそこそこ大きめの神社が歩いてすぐのところにあったのだ。代々木公園も徒歩圏内だったので、そのまま足を伸ばして明治神宮にもたまにふらっと行ったりしていた。
特に信仰心はないので毎回きちんと参拝するというわけではないのだが、なんとなく神社という空間に浸ることで神仏パワーにあやかれるような気がした。
今思うと、あの広大な公園と神社にふらっと散歩に行けるというのは贅沢な環境だった。


普段の散歩で行っていた代々木八幡や明治神宮の他にも、思い入れのある神社が、京都の伏見稲荷だ。
ここもまたずらっと真っ赤な鳥居が並ぶ様子がすっかり「映え」スポットとして有名なド定番神社である。

26歳で離婚した時と、その後28歳で同棲していた彼氏に振られた時の2回、伏見稲荷にお世話になっている。別に恋愛の聖地だとかそういう場所じゃないはずなのだが、まあ細かいことはいい。神聖な感じがして、浮世と離れられればどこでもよかったのだと思う。信仰心のある人には怒られそうな選定基準だ。

伏見稲荷は下の方は観光客で溢れていて、神聖さを感じるどころではないのだけど、ひたすら階段を登って山頂付近まで行くと、大抵の観光客は途中で離脱していくため時間帯によってはほとんど人がいないのだ(2015年当時の平日の話なので、最近はそうでもないのかもしれないが)。

赤い鳥居の中を通ってひたすら階段を登る、という動作も、なんとなく修行っぽくていい。

初めて行った時は、そんなふうに軽く山登りをするような場所とは知らずにふらっと立ち寄っただけだった。
でもその場に来たら、なんとなくこれを上まで登れたら、帰ってきた時に登る前とは何かが変わるような気がした。真夏にタイトスカートにぺたんこサンダルというまったく運動向きではない格好で頂上を目指す。
案の定汗だくのドロドロになり、靴擦れができ、着ていたタイトスカートはスリットの縫い目がビリッと破れた。

そんなふうにボロボロになってまで山頂に辿りつき、そこで何かを得たのかというと、特に何もなかった。それでも、登る前と後で、何かの気分が変わったことは確かだったと思う。

ただ1人で階段を登って、頂上まで行って、戻ってくることができた。当時、離婚して自己肯定感がずたぼろになっていた私は、それだけの些細なことから、自分への信頼を取り戻すことを始める必要があったのだ。

そういう「儀式」を経ることで、少しだけ自分の中の感覚が変化し、それが現実を変える、ということは確かにあったと思う。

実際、伏見稲荷に行った後、離婚後初のパートナーができたし、その次にそのパートナーとの同棲解消後に行った時には、1ヶ月後に今の夫と付き合い始めている。

今思うと、(主に人間関係面で)大きく人生が動く前には伏見稲荷山頂を訪れていた。え、めちゃくちゃご利益あるじゃん……!

2016年7月4日、伏見稲荷を登る途中に撮った写真。



今の自分が、その頃のように切実に「人生を変えたい」と願っているかというと、そうではない。たぶん、現状にある程度満足している。だから今まで伏見稲荷の存在も忘れていた。
20代の頃にエネルギーとしていた、焦燥感や渇望はなくなったと思う。

だけど、安定的な人間関係を得た今、それとはまた別のエネルギー源を手に入れたようにも感じる。それは衝動的に爆発するような行動力には繋がらないかもしれないけれど、一段一段階段を着実に登るように、自分を前に進めるための力だ。

一気に駆け上っていきなり破綻するような、ジェットコースターみたいな激しい上下運動に生きている実感を求めるのではなく、今は確固たる足場の上にきちんとしたものをゆっくりと積み上げたい。
20代の自分だったら、そんな安定した人生はつまらない、と言うと思う。でも、その良さがわかるようになった自分の変化をポジティブに捉えている。

なんとなく、今がまた人生のゆるやかな節目のような感覚がある。このタイミングでまた伏見稲荷山頂に行ってみてもいいのかもしれない。
そこから戻ってきたあと、どういう感覚の変化があるのか。どんなふうに現実が転がるのか。まだまだ人生の楽しみは続く。

たのしいものを作ります