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卒業不可だった話 の、そもそもの話

昨日の続き


バイトに戻った。
戻りはしたものの勿論それどころではない。
物販で接客をすれば絶対にミスる気がして、奥に引っ込んで作業をした。何の作業をしていたかは覚えていない。あまりにも当然。

ここで私の状況を整理してみようと思う。

私は現在、大学6年目である。
6年生、と書かなかったのは、医学部でも薬学部でもなく、4年制大学の法学部に、勝手に6年も居るだけだから。
余分な2年の内訳は、1.5休学0.5留年。
どうしてこうなったか。
私の現状に関わってくるため書かないわけにもいかないので、なるべく短くまとめようと思う。

さっくり言えば、大学2年辺りで父親が結構な毒親だと発覚したことで戦争開始、学生で食い扶持が稼げないことに目をつけられ、嫌がらせとして兵糧攻めに遭ったことが大きい。
父親からの仕送りがなくなったことで、月の収入は母からの6万円とバイト代のみになった。
因みに当時は都内で一人暮らし、家賃は6万2千円である。

お金がない時、初めに削れるのは食費である。
母が実家から送ってくれるお米に調味料をかけて食べるのが、1日2回のルーティンになった。
お気に入りはケチャップ、あるいはソースマヨ。意外と酢醤油が合うから試してみてほしい。
当然ながら体には悪い。この食事だと、体調の良い日が月の半分あれば御の字。

3ヶ月に1度持病の薬を貰いに行くのだが、その月は特にピンチである。
薬を貰うために食費を削り、その結果さらに体調を崩していることに気付いて笑ってしまった。

その薬を貰いに行くための通院の日、家に来ていた当時の恋人からおつかいを頼まれた。病院の帰りにコンビニスイーツを買ってきてほしいと言う。
勿論そんな贅沢品はしばらくお目にかかっていない。
でもお金がなくて買えないと言い出すのが恥ずかしくて、かと言ってコンビニスイーツ代の数百円をわざわざ貰うことも恥ずかしくて、というか、恋人を相手にその全てをユーモアと愛嬌で丸め込むことができないほど、冗談ではなくお金がなくて、「お腹空いてないんだよね」とか適当なことを言いながら、恋人の分だけバスクチーズケーキを買って帰った。
もう3年位は前の話なのに、こうやって買ったものの内容をみみっちく覚えているくらいには、心ごと貧しかったのだと思う。

大学3年の夏休み前には、切り崩していた貯金がとうとう尽きた。
ガス電気水道全てに停止の予告が届き、クレジットカードが止まり、家賃を滞納しすぎてアパートを追い出される寸前まで行った。
春学期の試験前ではあったが、試験どころではなかった。生きねば。
生活のために働き続け、元々の成績がそれほど優秀でなかったことも相まって、実質的に留年が決まった。
学問は贅沢だ、という言葉の意味が初めてわかった。そんなものはわかりたくなかった。

贅沢ながら、大学には通いたかった。
半分意地のようになっていた。
貧しさで、実父からの嫌がらせで、自分の人生を左右されてたまるか。

返還型奨学金の受給を検討したが、親の収入が十分であるという理由で受給対象にならなかった。
生活保護は大学に通っていると受けられない。
児童相談所は18歳まで。

十分に収入がある親に資金援助を断たれた大学生は、大学を辞めるか生存を辞めるかの2択になることがわかった。これもわかりたくなかった。
これは社会のバグだ。
収入が十分なのに、学生である子に資金援助をしない親、という存在が、社会設計上そもそも想定されていない。私はこれを問題提起したい。
というか、そんな社会の抜け穴を突くモンスター爆誕しないでくれ。聞いてるか父親。


東京では、息をするのにもお金がかかる。

ねえでもさ、こんなに必死に息をする理由があるのかな。


私は息をするのに相応しい人間か?


そんなわけないな。

死ぬか。

お金がない私は、この短絡さで何度も闇に取り込まれた。

さて。
あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世に……いや、まだこの世にいるということです。

当然ながらいます。
当然のようにいます。
しかも割と楽しくいます。
卒業は不可だったけどな。

2020年3月、私にとっては大学4年目の3月、ご存じコロナが流行って1回目の緊急事態宣言が出た。
そのとき私は、諸用でたまたま実家の長野に帰っていた。
実家に基礎疾患がある人がいたり、大学がリモートになったり、色んな理由が重なって、そこから2023年までずっと長野。
東京の家は引き払った。

長野に帰ってからは、同世帯のよしみで母が養ってくれた。
家賃や生活費を自分で払わなくてよくなったことで、生活水準は圧倒的に向上した。
野菜やたんぱく質を毎日摂れること、お菓子やアイスも食べていいこと、暖房が使えること、常備薬を買えること、本を買えること、U-NEXTやApple Musicをもう一度契約できること、請求書やインターホンやカード会社からの電話に怯えなくていいこと。
なんかそういう、かつて当たり前だった幸せを積み重ねていくことで、精神が少しずつ回復していった。

長野は息がしやすかった。
だから生きることにした。

人にはそれぞれいろいろある。
これが私の、いろいろの一部。

そろそろ長いな。
次回はやっと大学の話をします。

続く。

(photo by tsuchiya mugiho)

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