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猛毒を腹にnote休止を悩んだ夜

仲間と呼ぶには些か一方的に存じ上げているだけに過ぎませんが、同世代の白血病の方が亡くなったことをTwitterで知りました。本当はこんなことは言いたくなかったけれど。
ご冥福をお祈りします。だれもこんな過酷な経験はしたくないでしょう。だれも家族をおいて死にたくはないでしょう。闘い抜いて、かっこいい姿をみせて下さったこと、敬意でいっぱいです。
どうか、どうか安らかに。お疲れ様でした。

生前にお話ししたことがある訳ではありません。
ただ、その方がされていたライブ配信を拝見したりしていて『頑張って欲しい…』と陰ながら応援しておりました。どうして神様はこんな懸命に闘っている人ばかり連れて行ってしまうのだろう。
『神様は乗り越えられない試練は与えないんだよ』と、抗がん剤や放射線治療、移植の過酷さを経験されたことのない方から言われる度に私は違和感を感じていました。本当に神様がいるのであれば、わざわざこんな酷いことをしなくても良いじゃない。闘うだけ闘わせて、最終的に連れて行くのかよ。そんなのあんまりじゃないか。救いはどこにあるんだろうか。努力は必ずしも報われるわけでもなく、それでも安易にかけられる言葉に時に励まされながら、時に傷つきながら、自分の中の恐怖を騙し騙し生きていくしかない。
病気になるのは悪人ではなく、普通に生きることを望む、普通の人なのです。
たまたま投げた石が私に当たった。それも何度も私に当たっているだけ。1度当たる毎に的が大きくなるんだ。そしてこれからも、何もしなくても生きているだけでその的は年々大きくなり続けていく。そう思って今まで生きてきました。死刑宣告を受けたまま人生という抜け出せない監獄の中で生きている。ここから、この恐怖から脱獄したい。何も考えずに、痛みもなく、苦しむこともなく、本来ならする必要もない苦労の一切も捨てて普通に生きたいだけなのに。みんながしている、普通に生きるというハードルがとてつもなく高い。

嫉妬に支配されて堕ちていく

ある時、たまたまTwitterで見つけた女性。
自殺未遂をして両足を切断。障害者やバリアフリーへの理解を深めたい。
そう言いつつ、なにかあれば『死にたい』と発してしまう。そしてそこに『大丈夫だよ。大丈夫?』と群がる大人たち。
分かっているのです。これは私の不健全な嫉妬。
肉体的な痛みが圧倒的に優位な私には、精神的な痛みが理解できないのです。
どんなキツイ治療でも、どれだけ薬剤で朦朧としていても、意識がある中で乗り越えてきました。
生きたい!死にたくない!生きなければ!とそれだけを考えて治療に耐えてきました。
発作的に自殺未遂をしてしまい、その間の記憶が無い。そんなことが本当に起こるだなんて私の想像を超えているのです。
自分から健常者であることを手放したのに、なにを言っているのか分からない。『頑張りたい』と言いながら『死にたい』とも発してしまう。
『生きたくても生きられない人がいる、だから生きている人は懸命に生きなければならない』これもまた極端な考え方だと理解はしているのです。
人は誰だっていつかは死んでしまうし、誰かが亡くなることと、私自身の死への恐怖と、他人の死にたい気持ちは別だと、頭では理解しようと思うのです。
ただ、死にたいと発した言葉に周囲が『頑張れ』と言って『ありがとうございます!励まされました!頑張ります!』とこたえる姿に、『なんなんだこの茶番は…』と捻くれ者の私は感じてしまうのです。生きることって、死ぬことって、こんなにも実態のない言葉だけの意味しかないのだろうか。
いや、両足の切断という辛い経験もされて痛みを感じておられることは理解しているのです。しかし、自ら決断して自殺未遂をした方には病気で強制的に人生が終わってしまった方がどう映るのだろうか。
いま、具体的に存在している女性を思い浮かべて記してしまっているので、私のこの発言はきっと誹謗中傷にとられてしまうのかもしれない。そう思いながら、自ら死にたがる人がいて『死にたい』と『みんなありがとう、頑張って生きる』という言葉の繰り返しに、『頑張ったら、応援されたら、良いねが多ければ、生きられるんだ、じゃあどうして死にたくなるのだろう』と自らの意に反して死のうとする肉体を抱えた私は、生きようとして闘って亡くなっていった方を見ている私は、生きられるのに死にたくなる方々への嫉妬で頭の中がいっぱいになってしまう。
『生きたくても生きられなかった。生きて子供を抱いて、成長を見守っていきたかっただろう。当たり前に享受出来ると思っていた当たり前を病気によって強制的に奪われて亡くなったあの人は、死にたがる方々を死の世界からどう思うのだろうか』

誰も死を経験することは出来ないし、本当の死に勝てる人はいないからこそ、生きることは勝ち負けじゃない…じゃあでもなんで、あの人が死んであの人が生きているのだろうか思ってしまうのです。
精神的な痛みが理解できない。どうして?とそこからいつも思考を前に進められない。私の不寛容さと経験不足が故だと思います。
以前にもこんなことをnoteに書いた気がします。
誰かが亡くなる度に、自分の未熟な精神性に出会い、私はこの壁にぶち当たっています。
こんなことを考えずに、自分は自分って思えたら良いのに。『人はいつか必ず死ぬけれど、私は多分きっとそれが人よりも早いかもしれない』という恐怖と錘を外したい、そんなこと考えずに気楽に生きていけたら良いのにと思います。

『病気をして本当に毎日支えて下さる皆さんへ感謝の気持ちでいっぱいです!』とか『色んなことが出来ることが嬉しくて、毎日が楽しくて、日常が美しく感じます!』とか、発してきました。
ぶっちゃけると病気のおかげで毎日に感謝出来る、日々が美しく感じるなんてこと、本当はどうだっていい。
病気にならなくたって毎日感謝は出来るし、していたし、支えてもらわずに自立して生きている方が人に感謝しなくても言いぶん気は楽だし、日々の美しさに多少鈍感だったとしても健康に楽しく生きていれば、年齢を重ねて順当に美しさを感じることは出来る。本当はそれでいいし、そうでありたかった。
あと何%かも分からない今の生存率を上げるために、未来の自分を常に犠牲にしなければならない治療。卵子凍結をするか決断する時も迷いました。したところで、再発を繰り返して将来寝たきりになったら子供はどうなる?子供をヤングケアラーにしてしまわないか?
結局、卵子凍結は選択せず不妊になってからは更に、結婚してどうなる?夫婦2人の生活は本当に2人以上でも以下でもない。子供という未来は最初から私にはない。それでも彼を私に付き合わせていいのか、主人とも何度も別れ話はしました。私のせいで人生を棒に振って欲しくない。治療に時間を奪われている私は、人の時間や出来たかもしれない経験を奪うことが怖かったのです。

自分を鼓舞して、お互いを鼓舞して、『頑張って生きていこう!次は病院の外で会おう!』なんて話していた同世代の仲間が亡くなっていく現実。同じ病気の人が亡くなる度に、再発の報せを受ける度に、次は自分かもしれないと思う恐怖。
LINEを交換しても、もしものことを知ってしまうと辛くなるから、その後元気にしているかは連絡出来ずにいる人がいること。
肉体的な痛みなど、本当は考えずに生きていけたはずの人達への嫉妬。
全てが自分にまとわりついてくるのです。

昨日は寝たのか寝ていないのか分からないような
グルグルした気持ちで一晩を過ごしました。
特定の女性を攻撃したくなっている自分がいる。
羨ましく、妬ましく思う、汚らわしい自分がいる。
そんな自分自身がいることも受け止めなければならない。
どこに思考を巡らせれば、どうすれば、何を思えば、健全に物事を見られるようになるんだろうか。
書くのをやめてしまおうか。きっと誰かを傷つけてしまう。でもこの猛毒を腹に抱えたまま過ごすことも出来なかった。結局は私も弱い人間なんだと思います。

白血病の私はコロナや特発性大腿骨頭壊死症などで働くことが難しいのが現状です。頂いたサポートは医療費や生活費として大事に使わせて頂きます。私の経験がお役にたてば、応援して頂けると幸いです😌