好きな季節


「好きな季節はなんですか?」

そう訊かれて、あなたならなんと答えるだろう。
私の好きな季節は夏です。
だけど、私が夏を好きだと自覚できたのは、ほんとうはすごく最近のことだ。

好きな季節、好きな色、そんなささいな好みを、でも誰かからフラットに訊ねられたこと、特に小さい頃はよくあった気がする。幼稚園や、小学生のころ。
好きな季節は? 好きな色は? 相手のことを知るために、相手と仲良くなるために、気兼ねなく訊ねられるなんでもない質問。
そのたびに私は、そのときの気分や、なんとなくこれが私の(相手から見ても、自分にとっても)イメージに合っていると思う季節や色を答えていた。
でもそれがほんとうに私の「好き」だったかと言うと、きっと違う気がするなぁ。
ごく最近そんなことを思った。

自分の好きって、そんなに簡単にはわからなかった。
自分のことも、そんなに簡単にはわかっていなかった。それが小さな違和感だったのだけど、それすらも私はわかっていなかった。

でも今年、Twitterを続けていて、ふと「冬の光が苦手だ」みたいなツイートをしたことがあったんです。
そのときに、あぁ私は冬が苦手なのかもな、と思って。
年末年始のこの時期の、妙に早足な感じもいろんなことをやらなきゃいけない感じも、どこかしら変わらなきゃいけないと思ってしまうことにもとても疲れる。
逆に、なんか夏って好きだな、と思った。
特に8月。世界が自分と近い感じがする。
すべての境界が曖昧で、自分が自分であることにあまり疲れない。
暑いけど、クーラーの入った部屋は秘密基地のようだし、さらさらした布団の上で読書するのが好き。
そう気づいたことがなんだかとても嬉しかった。
自分を掴んだような気がした。

そんなことをなんとなく考えていて、もうひとつ思ったこともある。
わからないをわからないと思えること。
それもすごく、大切なことなんじゃないかと。

思い出したことがあって、昔不登校だったころに、私の母が、「なんで学校行かないの、なんで嫌なの」と私に訊いたことがあった。
私はずっと黙って、答えられなかった。
そのときに、母が言ったんです。「わからないんでしょう。だったらわからないって言いなさい」と。

それは私にとって光のようだった。
「わからない」ということ。それを認めること。たとえば誰かが認めてくれなくても、自分だけは自分の「わからない」を、ちゃんと認めていいのだと、そう教えてくれた母に、心からありがとうと言いたい。

わからないことがわからないままある美しさとは、わからないことを抱える儚さとは、なんて尊いのだろうと思う。
加えて、わからないことをわからないからと、否定しなくていいのだとも思う。わからないことをわからないまま、そこに置いていていいのだ。
そして、いつか何かをわかることができても、それが揺らがないものでなくともよい。
私の好きも嫌いもわからないも、ゆらゆらと揺れるものでよいのだ。
ゆらゆら揺れる自分とこれからも、一緒に泳いでゆくのだから。それこそが、私自身なのだから。

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