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こうして母になりました。 ~人生で最高に廃人となった10ヶ月のお話~

二度、経験した重症妊娠悪阻 (つわり) のお話です。


はじめに

この写真は、赤ちゃんが生まれ、退院前日に病室から見た青空です。
この青空を見ると、いろんな事が思い出されます。

つわりで来る日も来る日も吐きながら、病室のベッドから眺めていたあの青空。
無事に赤ちゃんが生まれ、明日いよいよ退院という、希望に満ちたこの青空。

ここに書かせて頂くのは、ふたりの子どもたちが生まれてくるまでに経験した二度のつわり (重症妊娠悪阻) のお話です。


出産当日

予定日を過ぎたその日、出産の時は突然訪れました。
病院に着き、診てもらったところ、助産師さんが一瞬の沈黙のあと一言。
「…全開ですね」

間も無く出産なため、すぐに分娩台に案内されると、顔見知りの助産師さんたちが集まってきて下さいました。 

(助産師さん)「おめでとう!おめでとう!あの○○さんだ」
(私の心の声)(いや、おめでとうって…まだ生まれてないから!本番はこれからだし)

助産師さんたちはバタバタとしながらも驚きの様子。

「もう 10 cm 全開って…え? いま普通に歩いて来て、受付してたよね!? …痛いでしょ!? 今も普通にしゃべってるし…本来ならとっくに絶叫しているところだよ」

つわりの時期がつらすぎたためか、単に鈍感なだけなのか。
陣痛の痛みは、私にとっては蚊に刺されたぐらいな感覚でした。

そんな私を助産師さんたちはつわりの入院中からよく覚えて下さっていたため、今ここに来ただけで、色々と乗り越えて出産の時までたどり着いただけで、
もう既に「おめでとう!」なようでした。


つわりの始まり

私にはふたりの子がいます。その二回とも、重症妊娠悪阻になりました。
つわりは千差万別で、同じ人でもお腹の子によって違うと言われますが、私の場合は 2 回とも同じ様でした。


そんなつわりは、待ち望んでいた妊娠が分かってすぐ、やってきました。

昔持っていたつわりのイメージはこうでした。
「つわりって吐くんだ、痩せるんだ、大変なんだ。でも何とかがんばって、安定期に入ったら、周囲の方々に妊娠を報告するんだ」。

でも、そんなもの、幻想だという事は、一人目の時の経験から分かっていました。

“安定期になったら報告” …そんな遠い先まで待てるわけない。
“何とかがんばって” …何とかがんばるとか、そんな次元じゃない。

本当は誰にも、親にすら言うような段階ではないごく初めの時期ですら、私のつわりはもはや隠し通せないほど重いものでした。

私はお腹の子…よりもむしろ自分を守るために、自分の本来の意には反して、職場には普通ではあり得ないほどの早い段階で伝えなければなりませんでした。
伝えると、少し肩の荷が降りました。


つわりが始まってすぐ、空のスーツケースを持ち歩きました。
とてもしんどくて、いつでもどこでも、道端でも、座れるようにするためでした。

そんな風に歩けたのもつかの間、数日すると昼間に外を出歩けなくなりました。色のあるものを見られなくなったからです。
色が付いていると情報量が多過ぎて、目を開けているだけで吐いてしまう。だから、とっぷり日が暮れてから、白黒の世界の中でしか歩けなくなりました。

この頃にはすでに、毎日 10 回ほど吐き、ほとんど何も食べられなくなっていました。
食べられそうなものを一口かじっても、かじった以上に吐き、口からだけでは間に合わず、鼻からも噴水のように吐きました。
胃酸でのどがただれて、血も吐きました。

どこからこんなに吐くものが湧いてくるのか不思議でした。
マーライオン…いやそれ以上でした。


つわりでよく例えられるのが、「ごはんの匂いでウッ…となる」です。
でも、ごはんの匂いとか、そんなものではなく、普段匂いのしないもの…たとえば空気でも、耐えられない匂いがしました。
全てが無理で、あるのは強烈に襲い続ける吐き気のみでした。


その頃、私は夫と単身赴任をしていました。私は関西で、夫は関東にいました。
夫は週末にこちらに来てくれます。

もはや動けない私に、週末、夫がペットボトルのお水を買ってきてくれました。
一週間後の週末、再度夫が来てくれた時、先週と同じリビングの机に置かれたままの水が、一週間でたった 1 cmしか減っていないのを夫は見ました。

そんな折、私は道端で気を失って倒れました。その際、家まで連れて帰ってくれた優しい方がいました。
どなただったのだろう…お名前を聞いておけばよかった…後から思いました。救われました。


本格化するつわり

職場に妊娠を伝えてすぐ、仕事に行けなくなりました。
その頃にはもう座る事もできなくなっていました。

職場が「大丈夫、任せて」と言って下さった事が、本当に救いでした。
この言葉で、私は申し訳なく思いながらも、とりあえず感謝しよう、と思い、病休をもらいました。

家で、朝から晩までリビングで寝転んで、吐きながら、明るい外が暗くなるのを待つ毎日。立ち上がる事ができないので、手の届く範囲にバケツを置いて、吐いていました。

吐いて、吐いて、猛烈に気持ち悪くて…。
ようやくあたりが暗くなって長い長い一日が夜になると、一応の昼夜のけじめをつけるために、やっとの思いで体を起こし、1 メートル先のベッドまでゾンビのように水平移動しました。

何も飲めないので、トイレに行く必要すらほとんどありませんでした。
みるみると痩せていきました。

体重は最初の 2 週間だけで既に 12 キロ減っていました。
もともと 40 数キロの体重です。体の 25%、体の 4 分の 1 が、始めのたった 2 週間でどこかに行きました。

久しぶりにふと自分を見ると、太ももは、もう誰の太ももか分からないくらい、見るのが怖い細さになっていました。
太ももではなく、細ももでした。

月曜日、火曜日、水曜日…。明るくなって暗くなり、時間が過ぎるのをただただ待つ。
ずっとずっと気持ち悪くて、必死で過ごしました。
こんなに何もしていないのに、こんなに暇じゃない毎日は初めてでした。

これでもまだつわりは始まったばかりなのか。
一人目の経験から覚悟はしていたものの、つらすぎて、先の事など考える余裕はありませんでした。


つわりでよく例えられるのがこんな感じです。
…極度な車酔いのよう、太平洋のど真ん中の船酔いのよう。

そんな次元ではありませんでした。次元の違う例えようのない吐き気でした。

普通は吐いたら少しは楽になりますが、吐いても吐いても激烈な吐き気が 1 秒ごとに襲い続けました。1 秒たりとも、一瞬たりとも、楽になる時がありませんでした。
それが今日も明日も続きました。

ほんの一瞬でもいいから、1 秒でも休める時があったらどんなに違うだろう。
一瞬でいいから、ほっとつける瞬間があれば… でも、ありませんでした。


こんな状況のなか、言われた言葉があります。

「私もね、スイカしか食べられなかったの」
 スイカ “しか” …スイカなんて食べられたらどれだけいいだろう。

「点滴に通ったの」
 “通った” …病院に通うなんていう体力があるならどんなにいいだろう。

「仕事をしていた方が気が紛れてよかったよ」
 …もう何と答えたらいいのか分かりませんでした。

そんな中、夫に助けられました。

「水一滴すら無理なんだ」
私が無理と言えば、夫はそれは「無理なんだ」ととらえてくれました。
そのまま、私が言う事を全部そのまま、受け取ってくれました。

「そうなんだね、無理だね」
心がおちつきました。


入院

12 kg 痩せた頃、一人目のつわりの経験から、もうこれ以上痩せるともう一歩も歩けなくなる… つまり、タクシーにすら乗れなくなり、病院に行くすべが無くなる事が分かっていました。

日に日に状況は悪化するので、こんなにしんどくても、今日がこれから先の中で最善の日だと思いました。

病院へ向かえるのは今日が最後のチャンス…。その日、もはや無い力を振り絞って病院に行きました。


病院に着くと、看護師さんたちが静かに集まって来て下さいました。
もう、大丈夫、なんて聞かれる事はありませんでした。大丈夫でない事を察知して、寄り添い、対応して下さいました。

体の飢餓状態を表すケトン体の値は当然最大値のプラス 4 。
即入院となり、私は吐くためのビニール袋を握りしめ、傾きながらもなんとか車椅子に座り、入院する病室に運んでもらいました。

入院し、24 時間の点滴の始まりです…
と言いたいところですが、血管が弱りすぎていて点滴の針が刺さりませんでした。

看護師さんたちが次々とトライし、10 回ほど刺しましたが、日勤の看護師さんたちでは対応できず、夜勤の看護師さんを待つことになりました。
結局、夜勤の看護師さんでも刺さらなかったため、普段刺さない場所に刺すことになりました。

その点滴のために服を脱ぐと、脱水状態の肌がボロボロと、服と一緒に剥がれ落ちました。

入院したので、血圧を測ります。血圧計で何度トライしてもエラーが出ました。機械で測れる血圧の範囲を逸脱していました。
一般的に、最低血圧がおよそ 60 以下で低血圧と言われますが、私は高い方の血圧ですら、60 しかありませんでした。よく生きているなと思いました。

話す事もできませんでした。問診されても、言葉を発そうとすると、言葉よりも先に吐くものが出てきました。
入院時に必要な書類へのサインも、ペン一本持つ力がなく、手が震えるので、代筆してもらいました。

ケータイが光っています。メールが来ているらしいのですが、ケータイが重くて持てず、また画面を見ると酔うので、ケータイを見られませんでした。
夫に代わりにメールを声に出して読んでもらっていました。


やさしさ

夫は単身赴任で、関東で仕事をしています。
毎日仕事をしているので、週末は貴重な休みです。
ですがその貴重な休みを使って、夫は毎週関東から関西に、ただ私のたまった洗濯物をするだけのために来てくれました。

せっかく来てくれても、電気を消した薄暗い病室で横になっているだけの私。
話すと吐くので静かな病室。
何も楽しくなくてごめんね、と思いましたが、夫は当然のごとく、ただただやさしく頼もしい、いつもの素敵な夫のままでした。

私は夫のやさしさになんとか応えたく、夫の病院からの帰り際、その時できる限りの笑顔をつくり、“ありがとう” と言いました。
週一回、この時だけ、無表情で凝り固まった顔の筋肉を動かしました。

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こんなに何もできないのに、毎週末夫が来てくれるのが楽しみでした。

月曜日、火曜日…長い長い一日。何回見ても進まない時計。
3 回吐いて時計を見ると、まださっきから 10 分しか進んでいません。

それでも、週末を目標に過ごしました。
24 時間点滴をしながら病室で吐いているだけ。
なにか変化があるとしたら、それは時計の針と空だけでした。

時計は見ても見てもなかなか進まなくて愕然とするだけなので、病室の窓からいつも空を眺めていました。
青空が唯一の癒しでした。

 

気持ち

吐いて吐いて、しんどすぎました。ですが、お腹の子が元気な事が、私の生きている原動力でした。お腹の子がいるから生きていられました。
もしこれが将来治らない病気でこんな状態だったとしたら、確実に無理でした。
この時、私は絶対に安楽死制度はあるべきだと思いました。

体はこんな状態な分、心だけでも何とか明るく保とうと思って過ごしました。
そうでないと、自分が自分でなくなる気がしました。

「こんなにもしんどいのだから、お腹にはきっと、とんでもなくかわいい子が入っているに違いない」
などと、根拠のない事を思い浮かべながら、自分を励ましました。

また、どんなにしんどくても、周囲への感謝の気持ちは忘れない事を心に誓っていました。
支えてくれている人を毎日思い浮かべ、心の中で感謝しました。


長らく入院している私とは引き換えに、隣や向かいの病室は賑やかで、次々と人が入れ替わります。
向かいの部屋から赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてきます。
…かわいいなぁ。
あの泣き方はきっと男の子だ、女の子だ、なんて顔も見えないのに想像していました。

ケータイも何も見られない、音楽すら聞くと吐く。できる事は目をとじて、頭の中で考える事だけでした。
“今度病院に入院する時は、私も必ず赤ちゃんと一緒に”
そう頭の中で夢を膨らませました。


それでも落ちてゆく

吐くだけの毎日をなんとか生きながら、入院してから既に 1 ヶ月が経ちました。
かれこれ 1 ヶ月以上、お通じも一度もありませんでした。もはや生きているのか、わかりませんでした。 

入院して 1 ヶ月、それまで私は強く振舞っていました。その方が、少しでも良くいられる気がしたからです。
でも、体がこれだと、だんだんと心までも傷められていくようです。

入院して 1 ヶ月が経ったある時、我慢していた何かが、溢れてしまいました。看護師さんの前で涙がこぼれおちてしまったのです。
お腹の中に、こんなにも愛しい子がいてくれているのに、涙を流している自分が情けなく思いました。

点滴は既に、もうこれ以上のものは入れられない段階まで強められていましたが、それに反して体重は落ちる一方でした。
さらに肝臓や腎臓の機能が悪化したため、入院して 1 ヶ月が経った頃、大学病院に救急車で搬送されました。

着いたのは、これまでとは雰囲気の全く異なる大学病院。環境が変わってまた新たに入院生活が始まりました。
この病院でまたしばらくの期間、変わらない毎日を過ごしました。


退院

…時は経ち、まだまだ吐き続けるものの、なんと、お茶が飲める日が来ました。
水は生臭くてまだ飲めないものの、お茶がほんの少しだけだけれど口に含める。

体が息を吹き返す時がきました。

どんなにたくさんの点滴を入れるよりも、ほんの少しのお茶を口に含める方が、はるかに体が蘇りました。
いつぶりだろうか…
胃よりも先に、ものが入っていきました。長らく休眠状態だった腸が、動き出す感覚が分かりました。

水分が口から取れるようになったので、とりあえず大学病院を退院してみる事になりました。

退院前日の夜、前に入院していた病院のお医者さんが、大学病院の病室まで会いに来て下さいました。
ものすごく忙しいであろう産婦人科の医師…。ただ私の顔を見るだけのために来て下さいました。
突然の訪問に、お礼の頭を下げる事しかできませんでした。


退院の朝がきました。ものすごく久しぶりに触れた外気。
…爽やかだ。

いつの間にか季節が変わっていました。
毎日空を眺めてはいたものの、世の中はいつの間にかこんなに進んでいたんだ、と感じました。


越えたはずの山

私自身は妊娠期間に安定期などというものは存在しないと思っていますが、世間的には安定期と言われる期間 (5~7 ヶ月) に既に入っていました。普通はこの頃にやっと周囲に妊娠を報告し始める時期です。

安定期に入ってからも仕事を休ませてもらっていましたが、やがて職場にも緩やかに復帰しはじめました。
つわりのど底辺は越えたというものの、それでも毎日吐いていました。

職場でも、常にビニール袋を片手に握りしめ、いつ喉まで食べ物が上がってきても吐くのが間に合うように、ドキドキしながら過ごしました。
ピークは越したはずなのに、つらかった。安定期など、ありませんでした。


そうこうしているうちに安定期と呼ばれる妊娠 7 ヶ月目が終わり、妊娠後期 (8 ヶ月) に入りました。
吐き気はずっと続いていましたが、予定日がいよいよ手の届く範囲に見えてきました。

退院後に職場復帰しても、ほとんど仕事をする期間のないまま、産休の時期になりました。
職場には、こんなにもサポートしてもらっているのに、快く産休に送り出してもらいました。花束までもらいました。
なんと感謝を述べたらよいことか…
本当に感謝でした。

でも不安でした。生まれてくるまで何があるか分からない。
ここまでやっと、やっと、来たんだから、何としてでも無事に出産しなければ。
生まれるその日まで思いました。

 

はじめてほめた自分

そして、産休の日々が過ぎ、夢にまで見た出産予定日を迎えました。

ここまで職場に多大なサポートをして頂き、お医者さんや看護師さんたちにとても親切にして頂き、そして家族にものすごく助けられてきました。

本当に周囲の支えのお陰で、無事に予定日までたどり着く事ができました。
本当に感謝、感謝の毎日でした。感謝しない日はなかった。

この 10 ヶ月間、しんどすぎる毎日でしたが、どんなにしんどくて、通常の感情がかき消されそうになっても、感謝の気持ちだけは持ち続けて過ごしてきました。

今日が予定日…
でもまだ生まれてくる気配はありません。
お腹の子、のんびりしているのかな。

妊娠してから 10 ヶ月か…。

ここでふと、10 ヶ月間を振り返りました。

それまで毎日、一日一日を乗り越えるために必死でしたが、この日はじめて、「自分、がんばったな」と思いました。
これまで周りに感謝してばかりでしたが、予定日当日を迎えて本当にはじめて、自分で自分をほめました。


やっと会えた赤ちゃん

予定日を過ぎたその日、赤ちゃんは元気な産声をあげて、無事に生まれてきてくれました。
コロナ渦で立ち合いは叶わなかったものの、分娩台から夫に電話し、そこではじめて涙が出ました。
入院中に一度だけ泣いた、あの涙以来でした。

…かわいい、赤い、ちっちゃい。

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おわりに

以前から、つわりは吐くんだ、痩せるんだ、と聞いてはいましたが、体験したつわりは重症妊娠悪阻と呼ばれる過酷なものでした。
そして私はこれを二度、経験しました。

周りの人々に助けられてはじめて乗り越えられた10ヶ月間。

今ここに、ふたりの娘たちがいます。
かわいい愛しい娘たち。

私はこうしてお母さんになれました。

終わり


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