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肩書きは無用

#エッセイ部門

 日曜22時、自宅のキッチン。強い雨の音が聞こえる。録っておいた音楽番組をTVで流している。左手はiPhoneを持っている。飲みかけのビールがグラスに残っている。腹部にしこりが認められる。あす、目が覚めたら検査に行く。それが今、わたしの身近にある事実のすべてだ。
 つい先ほど病院に行くことに思い至り、明日以降何かが変わるかもしれないために、今のうちに思いを記してみたくなった。
 今のうちに? そう。明日以降、「病人」や「患者」になってしまうことに抗いたい気持ちがあるのだ。私は私でありたい。とはいえ、これまでの私はなんだっただろうか。肩書きがずっと付いてまわっていたではないか。娘、孫、小学生から大学生、バイトの子、事務員、彼女、妻、主婦、そして母親。
 これまでも患者だった経験はある。整形外科や産科に入院し、私は〇号室の患者さんだった。採血しますね。血圧測ります。ガラガラガラ。ゴミありますか。ブー…  どうされましたか。すみません、ちょっと来てもらえますか。
 いろいろな音と薬品の匂いを思い出す。本当にお世話になりました。医療従事者たちはわれわれ庶民に寄り添い、ふわりと包み、技術をほどこし、きれいにして、付かず離れずの距離感でぼーんと放り投げてくれる。そんな経験を何度か繰り返して身に沁みたのは、いつまでも「患者」ではいられないということ。
 入院は、クリーニング屋さんにブラウスを預けるのと似ている。アイロンプレスを仕上げてもらったら、薄いビニール袋に包んで渡される。持ち帰ってもブラウスはクローゼットの飾り物にはならず、すぐにビニールをやぶかれて袖を通されるだろう。そしてまた、日常のシワが付いていく。
 わたしは知っているはずだ。医療の頼もしさ。クリーニング屋さんの便利さ。寄りかからせてくれる心地よさ。それでも依存し過ぎずに、患者とブラウスは家に帰らなければならない。外に踏み出し、バスかタクシーに乗り、食べ物を食べて、風呂に浸かって寝る。起きてまた食べる。歩く。生きる。私は私で立たなければならない。
 今春、ありがたいことに子どもたちは大人になり、家を出ていった。だから最近のわたしは「お母さん」を手放しつつあっただろう。いや、手放すは言い過ぎか、昔、小学生だったころ1年間使うとくたくたになった名札のように、主婦やお母さんといった肩書きはわたしに染み込み、一体化し、虎のようにぐるぐると回って溶けておいしくなったのだ。なんの話だったか。
 肩書きは無用という話だ。振り返ってみるとここまでの過去で肩書きに縛られてきたのは私自身だったかもしれない。ここからは大丈夫、私はわたしを信じている。
 「患者」という肩書きを気にし過ぎないでください。疎ましく思わずに楽しんでください。「お母さん」が、最初は不慣れだったものの終盤はとても楽しめたのと同じく、何某かの気づきを得て、焦らずにゆっくりと慣れていってください。
 これから出会う新しい風景、新しい事実を、その都度ありがたくおし頂き、観察し、ぐるぐると着古して、自分のものにしてください。
 そして、わたしは私自身に立ち返り、自分の「やりたいこと」をこそ、達成してください。既存やお仕着せの肩書きに振り回されている場合ではない。まだまだこれからでしょう。がんばれ、負けるな。ケセラセラ。応援するよ。
 さあ、ぬるくなったビールを飲み干そう。雨の音が今は、耳に心地よい。

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