語彙力とは何なのか

語彙力に限らず、力は「ない」と「ある」ならあった方がいいと思う。それは前提として、語彙力があると具体的に何がいいのか、自分の考えをまとめたい。というわけでまず、語彙の前に言葉について整理する。

まず人間には感情や考えがあって、それを他人に伝えるために言葉を用いる。言葉は若者言葉として新たに生まれたり、死語となって消えたりするが、その性質は基本的に「既製品」である。人間は既にある言葉を組み合わせて自分の考えを伝える。

一方で、言葉で伝える内容である感情、考えは既製品ではない。今この瞬間、その人のオーダーメイドだ。似ていることはあっても、同じであることはない。

ここで問題になるのが、言葉にしないと伝わらない感情はその時その時でオンリーワンなのに、言葉の方は形が決まった既製品なのである。イメージしやすくするために、言葉を箱と考える。さて、感情を箱に詰めて相手に渡すわけだが、詰めようとすると一部をそぎ落とす必要があったり、逆に箱の中のスペースが余ったりする。しかし箱に入れないことには相手に渡せないので、泣く泣く削いだり余らせたりしながら、どうにか詰めて渡す。そうしてやっと相手の手に渡ったその感情は、本来自分が持っていた時とは違う状態になってしまったのだった。これが言葉によるコミュニケーションである。

妙に悲劇的な書き方をしたが、実際のところ、これは誰しも理解していることだ。「言葉ってそういうものだよね」ということで世の中は回っている。よって全く違う形の箱に詰め込んで渡すとかでない限り、まあ何とかなる。オタクはすぐエモいとか尊いとか言うし。そのような具合に何とかなる。

何とかなるのだが…

どうせならもっと感情に対して適切な言葉を選択できれば、削いだり余ったりも少なく済む、すなわちより正確な想いが相手に伝わるのではなかろうか。ということで活用される力が語彙力である。また、伝えたいことをより正確に伝えられるということは、翻って伝えたくないことをより上手に伝えずに済ます力でもある。「ウソは吐いてないけど、核心ズバリな言い方は避ける」というような大人の対応もまた、語彙力によるものだ。つまり、伝えたい人に想いをよりしっかり伝える力が語彙力。ロマンティック。伝えたくない人に考えを出来るだけ伝えない力が語彙力。ドラスティック。

一時期流行った「わざわざカタカナ使わなくても、日本語で言えばいいじゃん」という現象も、一部にはこの背景がある。日本語でこう言えば、のその言葉だとニュアンスが若干変わってしまい、カタカナを使った方が意図するものにより適合するのだ。まあ、煙に巻きたかったり、格好つけたいだけの人が多いことも否定しないが。

さて、ここでひとつ具体例でも出せればスマートだったのだが、残念ながらとっさに思いつかなかった。それに下手な例を挙げて、重箱の隅をつつくような指摘が飛んできたら堪らない。その重箱の隅は感情に対して余ってるだけなんだから、つつかないでほしい。

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