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宗教記者で得た基本の仏教知識

「親鸞聖人という名前は聞いたことあるけど、何した人やったっけ、、」
このレベルで仏教を専門とする新聞社に入社してしまった。
自分の家は何宗なのかも分からんまま入社した人もいいひんかった。
社内の人らは、20年以上やっている人たちばっかりで、大学で宗教を研究していた人、高学歴の人、寺院に関する家に生まれた人、、、「伝教大師って誰ですか?」なんて聞くこともできひんかった。

そんな自分が2年半勤めて感じたことは、日本人として、仏教の大まかな説明ができるほどの基礎知識がついて良かったなあ、という安堵。
海外に行って、自己紹介やお互いを知るために会話する時、必ずと言っていいほど聞かれる「何の宗教を信仰しているの?」という質問に「BUKKYO~~!、、、(これ以上聞かんといて)」としか答えられへんかった自分からは格段に成長できた。

仕事をしていく中で一番仏教を学べた時間が僧侶の「法話」を聞くこと。
僧侶が自身の体験談に紐づけて仏教の教えを説明してくれる講演みたいなもので、檀家さんや一般人向けに話してくれるから、すごく分かりやすい。
他の記者は、知ってることを聞くだけやから。と重要視してる人はほぼいいひんかったけど、自分にとっては、一番、仏教の教えがスッと入ってくる時間でもあった。
僧侶らの性格や日常なども垣間見えるので面白い。惹きつける話をする人はごくわずかやったから説得力などもセンスも問われてくる。話し方の勉強にもなった。

退社間近で取材した、小池秀章さんの法話が忘れられへんかった。
内容的には、親鸞聖人が35歳の時に越後に流罪されて、自身を愚禿(ぐとく)と名乗った時の話。

中学、高校の教員を長年やってきてはるだけあって、説明が丁寧で
きちんと関連している話を披露してから言ってくれはる。

吉野弘さんの「祝婚歌」を紹介し
「この歌には“二人が仲睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい”と初めに書かれている。愚かとはどういうことか」と参加者に問いかけ、「これは真宗の教えに近く、自分が正しいと思っている善人ばかりでは、争いごとが絶えないということ。自分が誤っているかもしれないと考え、自分が凡夫だと気付くことで和(平和)が生まれる」と説いた。

親鸞聖人が自身を愚禿と名乗ったことを例に挙げ、「親鸞聖人は自分を愚禿だと思いこまれたのではない。仏のみ教えを聞く中で、自分の姿は愚禿、凡夫だと気付かれたのだ」と話した。

自分は愚かだ、愚かだと思い込むことが大事なのではなく、
仏教の教えに触れる度に、自分が愚かだと気付くことが大切。と話されていて、なるほどと腑に落ちた。無理やり自分をコントロールするのではなく、仏教を通して自分自身と真摯に対話して気付くことが、教えに触れるということ。

小池さんの知り合いに、80歳からお寺に通うようになり、熱心に仏典を読んでいたおばあちゃんがいたらしく、その方は「仏教の教えを学ぶたびに自分が小さいものだと感じて情けなくなる」と涙ながらに話されていたそう。おばあちゃんは本当の意味で教えに出逢うことができたのだと思う。と小池さんは言ってた。

そこまでの境地にたどり着くには、根本的な何かから変える必要がありそうやから、いつになるかわからへんけど、達成した先には想像できひん世界が待っているんやろうなと考える。

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