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【新作小説】『月は、ずっと見守っていた』Prologue~第1章

Prologue 「月夜の記憶探し」

今宵は月夜、スーパームーンが冷えた光を放ち、まるでこの地上のあらゆるモノの熱を鎮めるかのように煌々と輝いている。
七海(ななみ)は、その神秘的な光を背に受けながら、時々何かを確認するように振り返り、ある場所へと向かっていた。

七海を見守る蒼い月

彼女は、50代後半。現在は離婚紛争の渦中にあり、一人暮らしの生活を送っている。
夫のDVによって心が壊れ、彼女は一過性の記憶喪失になってしまった。その時、嗜好や行動パターンも全て分からなくなった。好きな味も人との関わり方も分からず、失意のどん底にいたこともあった。
幸い治療が順調に進み今では、仕事にも復帰して日常生活が送れるようになった。
それで、生活が落ち着いてくると、時折、時系列で繋がらない部分の記憶を思い出そうとするが、その度に激しい頭痛と吐き気が襲ってくる。
心療内科のドクターに相談したら「無理に思い出さなくても時期がきたら思い出せると思いますよ」と言われた。

「思い出せたら何かが変わるかもしれない」と思う時もあるが、あの痛みは気力と体力をかなり削ぐので、今は、彼女は心が動くままに「記憶の探し物」をしながら過ごしていた。

第1章「酒場の安らぎ」


彼女が「立ち飲み屋・kickback※1 」の暖簾をくぐると、オレンジ色の照明が和やかな雰囲気を醸し出す店内に、早い時間帯から集まった常連客たちが、互いに酒を傾け、世間話に花を咲かせている。

七海はいつもの席に着いた「はい!いらっしゃい!」とま~ちゃんの明るい声が響く。その声は、日々の疲れを癒す清涼剤のようだった。

「ただいま」と返すと、ま~ちゃんは満面の笑みで「おかえりなさい、何にする?」と尋ねてくる。このフレーズを聞くと、七海は一日が終わったような安堵を感じる。

「ハイボールと何か魚の造りをお願いね」と告げると、ま~ちゃんは「ハイよ~、少し待っててね」と奥にいるマスターにオーダーを伝えに行った。

この「kickback」は、友人の紹介で訪れた場所で、30代の若く気さくなマスターと、目がクリっと可愛らしいま~ちゃんの人柄が心地よい。それもあって、20人も入れば満席になるこじんまりとした箱が、夕方6時には一杯になるほどの盛況ぶり。

常連が多く、癖の悪い客も少ない。
新参者の七海でも、気持ちよく接してもらえる。彼女は、この酒場をすっかり気に入り、一人暮らしの寂しさを癒してくれる、居心地の良い場所となっていた。

「はい、七海さん、ハイボールね」とま~ちゃんがカウンター越しに渡す。ここでの儀式のように、両隣の顔見知りの客と「乾杯!お疲れ様です!今日も飲むぞ~!」と杯を合わせ、談笑が始まる。

今日は左隣に常連の中尾さんがいて、彼女が「はい!おとうさん乾杯!」とグラスを掲げると、中尾さんも軽くカチンと合わせてくれた。

「今日も寒いな~」とお決まりの天候の挨拶から会話が始まる。中尾さんは、kickbackの開店当初から通っている古株で、その昔建設会社の社長だったと聞いたことがある。穏やかなご隠居さんで、よく話をしながら杯を傾ける仲になっていた。

一度、七海がネガティブ思考に陥ったときには、
「あかん!あかん!暗くなったら人生終いや笑っとかな」と優しい眼差しで元気づけてくれたことが、心に沁みわたり、それから彼女はいつでも笑顔を心がけるようになった。

いまでは店や客にすっかり慣れてきた彼女は、休みの前日には、いつもより長く居座り、居心地の良さに浸るのが楽しみになっていた。

彼女は、お酒は好きだが強い方ではなく、時折酔っ払って、気の置けない人たちに絡むこともある。それでも、常連客たちは「七海が壊れたぞ~」と笑って受け入れてくれる。

周りの笑い声が孤独な自分を忘れさせてくれる瞬間があり、少しだけ心が軽くなるのだった。

今夜も、酒場の賑わいに包まれ、七海は少しずつ心を緩めていった。

※1 kickback スラングで「パーティの意味」

初回配信予定日は、11月8日(金)
内容:第2章『不思議な客』
予告:第2章『不思議な客』では、七海が酒場で出会う謎の客との出会いで、七海の過去が動き出す…!?
                         ぜひお楽しみに!


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