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第109回 スカートをはいた女が医者になった(フィンランド)


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ポスター「スカートゆえに」の女性はロージナ・ヘイケル。フィンランド初・北欧初の女性医師だ。

1842年、フィンランドのヴァーサで生まれた。子どもの頃、父を亡くして家庭は困窮。17歳で学校を中退せざるを得なかった。一方、医学の道に進んだ兄2人は、学問を続けた。兄たちのように医師になりたかったロージナは、夢を捨てきれなかった。が、当時のフィンランドには女性を受け入れる大学などなかった。

でも彼女はあきらめない。隣国スウェーデンのストックホルム体操研究所に入学し、理学療法を学んで帰国した。ヘルシンキ公立病院で産婆コースを修了。再びスウェーデンに戻ると解剖学・生理学を学んだ。

1870年、ヘルシンキ大学は遂に聴講生ならと彼女を受け入れた。翌年、彼女は医学部への特別許可を与えられたのだが、女性が解剖実験をすることは「不適切」とされていた。そんな彼女を、解剖学のジョージ・アスプ教授が助けた。教授自身の研究室で、特別に彼女に解剖の実験をさせた。

1878年、ロージナは外科、内科、眼科、病理学の試験に全て合格。医学部を卒業した。35歳だった。彼女の医師資格は法的に正式なものではなかったが、故郷ヴァーサで個人医院を営んだ。1882年、反対の嵐の中、女性と子どもだけを診ることを条件にヘルシンキ地区管轄医師となった。1884年、医師会はやっと彼女を会員にした。

ロージナは熱心な女性解放運動家だった。女子にも男子と同じ教育を与えよと説き、男女同一労働同一賃金を唱えた。1888年、医師会で、公娼制反対の演説をぶった。女学生に奨学金を付与する団体を立ちあげた。フィンランド初の女性解放運動団体創立にも尽力した。

日本のロージナこと荻野吟子は、1851年、熊谷市に産まれた。彼女が医師となったのは1885年。ロージナと同じ30代半ばだった。

18歳で結婚するが、夫から淋病を移されて離婚。男性医師による治療の屈辱から「女医になる」と決めた。医術開業試験の願書を毎年出しては断られ続けたが、1885年、遂に受験が許可された。もちろん合格。日本最初の公認女性医師が誕生した。ロージナ同様、熱心な女性解放運動家でもあり、日本キリスト教婦人矯風会に入会して公娼制反対を訴えた。

それから140年余り。いまフィンランドの女性医師は全医師の58・3%。日本は20・3%。日本の女性医師の割合はOECDの中で最も少ない。理由は、大学医学部当局が、入試で女性が不合格になるよう操作していたからだと、数年前に判明した。これが日本なのだ。

【注】2006年、フィンランドで女性参政権100年を記念する官民あげてのプロジェクトが組まれた。ポスター「スカートゆえに」はその一環で作成された。中心となった「フィンランド女性会議」から頂戴した。

  (三井マリ子/「i女のしんぶん」2022年8月10日・25日号)

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