ご本よんだ!!!

注意書き
・好き勝手に読書感想文を書きました
・読みやすさを考慮していません。読みにくいと思います
・読んだ本『頭がいい人、悪い人の話し方(著者 樋口 裕一氏 PHP新書)』はこちらから買えるみたいです→https://www.amazon.co.jp/dp/4569635458/?coliid=I3N1I8U6CKUPTN&colid=122SCX9LS7W9E&psc=1&ref_=list_c_wl_lv_ov_lig_dp_it

『話し方から見る人の価値の本質と実態』

叫び二号

 話し方とは、私が思春期を過ぎ『価値ある人とは何か』を考え始めた時、最も重要な項目のひとつであると定め、探求してきた事柄の一つである。
 人には必ず思索というものがある。高校生の頃、生徒会の集まりの際、校内新聞の編集作業をどのように進めるか話し合っていたものの、締め切りが差し迫っていたことと当時の生徒会長が編集作業に不慣れであったことが相まってなかなか作業の割り振りが決まらずにいたことがある。その時、私は編集作業にも慣れていたため、いち役員という立場でしかも後輩であったものの割り振りに口を出し、結果として上手く事が運んだという事があった。この時、私は『この狭苦しい生徒会室に並んでいる先輩たちが自分と全く同じように物事を理解出来ているに違いない』と盲目的に信じていたのだ。しかし実際には全くそうではなかった。当時の生徒会長は一体誰がどの程度編集作業に詳しいのか把握していなかったし、その場にいる誰も締め切りに対してどの程度の余裕をもってスケジューリングすればよいのか想像出来ていなかったのだ。私が何故このような実態である先輩方と密にコミュニケーションを取っていたにも関わらず勘違いしていたのかと言えば、それは偏に『話し方』というものを軽んじていたからに他ならない。「このような言い方をしているが本当は全て分かった上で同僚に対する気遣いのような優しい感情が邪魔をしてハッキリとモノを言えないに違いない」。当時の私は、二十歳を超えようかという頃まで心の奥底からこのように信じていたのである。
 しかし、この『話し方を軽んじる』という姿勢は全くの誤りであった。
 話し方には、その人の無意識までもが表れる。
 「自分は凄い人間だ」と語る人が居た時、その語り口が尊大で横柄で事実に基づかない話や知人友人の肩書ばかりを自慢するような物言いであれば、本人が凄い人間であるとは決して言えない。
 逆に「私は気遣いの出来ない人間だ」と語る人が居たとしても、その言葉の端々には他者の意思を重んじるような「大丈夫?」「あなたはどうしたい?」「こういう風にしたいけど気になる所はない?」などの言葉で溢れていれば間違いなく気遣いの出来る人間だろう。
 話し方には、その人物の本質が表れる。
 今回選択した書、『頭がいい人、悪い人の話し方』では著者・樋口裕一氏が文章指導のプロとして見てきた『話し方の万国博覧会』とも言える者たちの具体例、そして『話し方という概念が社会生活・ビジネスにおいては学生の入試に代わる一発勝負の人間判断材料として見られているのだ』といったことが述べられていた。
 痛快かつ軽妙な語り口でつづられている本書は、パッと見の印象こそ著者の出会ってきた「頭の悪い人」を皮肉っているだけのようなものに見える。
 その語り口はユーモアに溢れながら理路整然としており、かつ著者の「頭の悪い話し方をする人(おそらく著者が嫌いな人物たち)」の羅列であると感じさせられるものの、しかして本書の本質として述べられているは『この世とは一義的に定義付けられるものではない』ということ。そして『理解していることと行えることは別である』ということだ。
 『この世とは一義的に定義付けられるものではない』とは一体どういうことなのか、本書の構成も踏まえて述べていきたい。
 本書は、いくつかのジャンルに分けて頭の悪い人の話し方というのが挙げられている。
 「慕われない上司」「異性に相手にされない話し方」「まだ許せる話し方」などだ。
 多くのトピックが挙げられている本書の中には、しばしば著者の主張が矛盾しているのではないかと感じる時もある。
 例えば『自分の意見を持たず他人の意見ばかりを話す人』はよろしくない、と書かれているが、一方で、『自分の判断しか信じず他人の意見に耳を傾けない人』はよろしくない、とも書かれている。
 この二つの主張も冷静に見れば矛盾などしておらず、どちらの項目の中でも『もちろん他人の意見に耳を傾けることは大切である』とも書かれているし、『自分なりの意見を持つことは大事だ』とも書かれている。つまり、どちらか一方に偏りすぎず、自分の意見を持ちながら信じすぎない、他人の意見に耳を傾けるものの決して鵜吞みにせず流されるばかりにはならないことが重要だということが述べられている。
 この例は対極にあって分かりやすい例であると思うが、その他のトピックでも「……である。もちろん――といった側面もあるが……」といった文がよく出てくる。
 私はこれが、著者の『価値観には多様性があり、主観にとらわれ物事を一面から見るのではなく多面的に捉えることが大事だ』という思想の表れであると考えた。
 著者は、あとがきでこの書の中で挙げられている事例の中には『私が尊敬する知的で素晴らしい人々が、時に見せる愚かな話し方も存分に利用させていただいた』といった内容を記している。
 このあとがきからも、「こういった話し方は間違っている」「このような話し方が正しい」など、ひいては「人間の知性とはこのような話し方でのみ表現されるのだ」などと述べているわけではなく、『この世とは一義的に定義づけられるものではない』と述べられていることが読み取れる。
 この書のタイトル『頭がいい人、悪い人の話し方』からも、あたかもこの世には「頭がいい人、悪い人の話し方がある」と述べられているかのような印象を受けるのではないだろうか。
 本書の述べたいことは、そのような短絡的で思慮に欠ける結論ではない。
 確かに「頭がよく見える話し方、頭が悪く見える話し方はある」ということが述べられている。しかしながら、それはあくまで『そう見える』というだけに過ぎず、決して『話し方が人の知性の真実を表す』というわけではない。
 学生の定期試験や入試問題などから解き放たれてしまった人間社会の中では、対面した際の『話し方』という一要素でしか人間の知性を測ることが出来ない・測ってもらえないというこの世の不条理がどうしても横たわっている。その不条理の中、どれだけ知性ある尊敬に値する人間であったとしても『頭の悪い人に見える話し方』をしてしまうことがあり、我々社会に生きる人間は三六五日、常日頃気を付け続ける事でしか人間的本質を他者に理解してもらうことが出来ないのだ。
 この理不尽極まりないこの世の摂理は、現代を生きる我々にとって絶望的な事実であり、同時に希望でもあると考える。
 この世には、どうしてもこのような理不尽が横たわっているのだ。
 であればこそ、我々は顧客や取引先、上司などを始めとした数多の人と向かい合う時に一場面・一やり取りの一瞬で相手の知性や人間的本質の価値を測るべきではないと理解出来る。そして、他者からは常に一瞬の振る舞いから己の知性や品格というものが判断されてしまいかねない為に、己を見つめ直し、話し方を見つめ直し、例えどんな些細な会話であったとしても記憶し反芻することに価値があるのだという勇気を与えてくれる。もっともこれは、常に他人の言葉の端々に目をやってしまい、己の発言一つ一つに気を払って神経質になってしまう私だからこそ感じる事なのかもしれないが……しかし間違いなく、私のように他者や会話や己の振る舞いに関して繊細に思想や思惑を感じ取り、とりわけ『そんな小さなことを気にして』などと言われてしまう人々にとっては勇気を与えられる話なのではないだろうか。我々の繊細さは、現代においてとても大きな価値を持つのである。
 さて、著者が述べている事柄はもう一つある。『理解していることと行えることは別である』ということだ。
 著者が述べている『頭が悪く見える話し方』は、気を付けることによって改善していけるものも多くある。例えば、権威ある知人の名前を出して自慢げに語るべきではない、などだ。浅学ながら人格障害や精神病などに関して自分が学んでいる範疇から考えると、こういった自慢げな物言いが染みついてしまっている人からすると直すことは全く容易ではないとも考えているのだが……今回は割愛することとする。
 しかしながら、著者が述べた『頭が悪く見える話し方』の中には、容易に改善出来ないものも見受けられた。
 特に気になったのが『自分の話ばかりする人』という内容だ。著者はこの内容の改善策として『他人の考えや思いにも興味を持ってみよう。案外おもしろいものだ』と述べていたが、私としてはいささか難しいのではないだろうかと思った。実際に私が遭遇した『自分の話ばかりする人間』というのは、他者の話を聞いたところで楽しくないのだ。それは「他人の人生経験などに興味がない」という場合もあるし、「他者へ興味を持っているんだと伝えることが億劫だ」という場合もあるし、「自分の話を聞いてもらえる機会に恵まれなさすぎるばかりに己のことを話さずにはいられない」という場合もあるだろう。どのような場合であれ、他者に興味を持つというのは容易なことではないと感じられる。自分の話ばかりをしてしまう人の中にも、このような話し方はよろしくないとわかっているものの直せないという人もいるに違いない。
 先ほど触れた著者のあとがきに記された『私が尊敬する知的で素晴らしい人々が、時に見せる愚かな話し方も存分に利用させていただいた』という内容からも、同様の事が読み取れる。例え知的で素晴らしい尊敬に値する人々であったとしても、時には己がコントロールしきれずに『頭が悪く見える話し方』というものをしてしまうものなのだ。
 著者は、この『理解していることと行えることは別である』という真理に関して、各項目でそれぞれ「このような対策を取ればよい」と述べていた。しかし私は、『人間にはどうしようもない弱さがあるのだと知る事』がこの真理に対する心構えであると考える。
 『自分の話ばかりしてしまう人』というのは、つまり『自分の話を聞いてもらう快感にあらがえない』ということだと考える。どのような事情があるにせよ、自分の話を他者に聞いてもらうという快楽の虜なのだ。『物事を浅い解釈で受け取ってしまう』という内容もあったが、これも『思考を深く巡らせず思いつきのまま物事に向き合う』ことが簡単で労力が少なく済み、快感であると同時に、人はこの気持ちよさにあらがえない時があるのだという真理を述べているのだと思う。知人に権威ある人物が居れば他人に自慢したいし、自分の事は凄い人間であるという風に見せたくなる。人は自らの劣等感や無能さからは目をそらしたいし、己の考えが間違っていると認め敗北する事は避けたいし、自分の意見を貫き通して他者から否定され嫌われることは避けたいと思うものだろう。
 これら人の持つどうしようもない弱さは、決して無くすことのできないものだ。だからこそ著者の言う『尊敬できる知的で素晴らしい人々』ですら『頭が悪い人に見える話し方』をしてしまうし、多くの人々(本当に全人口の中で多数派を占めるという意味で多くの人々が当てはまるかはわからない)が『頭が悪くみえる話し方』をしてしまうのだと思う。
 『こんな話し方はやめようと思ったのにうまく実践できない』と思った時。『どうしてあの人はこんなわけのわからない話し方をするのだ』などと憤った時。『なぜ何度も伝えているのにあの人はおかしな事を言うのだ』などと落胆した時。『人間にはどうしようもない弱さがあるのだ』と思うことで、初めて目の前の理不尽な事柄を受け止められるのではないだろうか。
 自分で自分をうまく制御できないというのは、仕方のないことなのだ。他者に関しても同じだ。どれだけ己の中、組織の中、社会の中での常識があるといっても逸脱する人はいる。従えない者もいる。己の欲望に振り回される者も、上手く目の前の事柄を認識出来ない者もいる。それらを不快に思ったり落胆したりする感情は否定する必要がない。不快は不快、不満は不満で抱いていい感情だ。しかし、例えば学校や会社で。例えば友人付き合いで。例えば家族との間で、どうしても相手とコミュニケーションを取り、相手を受け入れ自分を受け入れ、事柄を前に進めたり関係を維持しなければならないというような場面もあるだろう。
 そういった理不尽に向き合わなければならない時、『人間にはどうしようもない弱さがあるのだと知っていること』は、私たちに勇気と希望を与えてくれる。
 人にはどうしようもない弱さがあるのだと知っていれば、欲望に振り回されてしまう人のことを許すことが出来るかもしれない。自分の事を話さずにはいられない人の寂しさやどうしようもない感情を受け止めてあげようという気持ちになるかもしれない。もちろん、そういった気持ちにならなくてもいいのだ。人間どうしようもない時というのは必ずある。
 だが、例えば感情に振り回されてしまったパートナーに対面した時。大事な取引先の人と上手く話が噛み合わない時。そっと心の手を差し伸べ、相手の気持ちに寄り添い、他者の助けとなることでお互いが幸せになれる道を歩むことが出来るかもしれない。
 自分の弱さも他人の弱さも、どうしようもない時があるのだと、我々の心に許しと安息をもたらしてくれるかもしれない。そのような希望を持てるだけでも、『人間にはどうしようもない弱さがあるのだと知っていること』は大きな意味がある。
 本書で語られていたことは、あくまで『話し方』に重点を置いた内容だった。
 著者・樋口裕一氏は数多くの文章術に関する書籍を執筆しているらしく、本書ではあえて『話し方』に視点を置いた内容に限って記されたのかもしれない。
 しかし本書を通して見えてきたのは、『この世とは一義的に定義付けられるものではない』、『理解していることと行えることは別である』という絶望と、『繊細な感性にも大きな価値がある』『己にも他者にもどうしようもない弱さがある』という希望だった。
 この書から、あなたなら何を感じるだろうか。
 私は少なくとも、話し方から人間の価値というのは感じられるものであり、しかし実際にはその人間の全てを理解できるかと言われると困難で、だが社会には話し方から一切を判断される場面ばかりが転がっているという複雑で簡単ではない事実がこの世のそこかしこにあるのだという事が感じられた。私が明日からも、己の話し方ひとつ、他者の話し方ひとつに気を配る事にも価値がある。同時にそれはいつも不完全な理解しか出来ず、人には弱さがあり、また自分にも弱さと不完全な表現があるのだと意識し続けなければならないのだと感じられた。
 私には、明日からも努力する義務と意義があるのだと感じさせられた。
 あなたはどうだろうか。
 もしも、著者・樋口裕一氏が書の中で述べていたように、私が記したこの文があなたにとって自分を見つめ直し、理外の人物に対しても理解を示せるかもしれないと考える契機となれば幸いだ。

~おしまい~


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