セラピストの涙、あり?
いよいよ、年末という感じがしてまいりました。私はややエネルギー切れ気味なのでなるべく休日はのんびり過ごすようにしております。
週末は早朝から銭湯に行き体を温めるという…いよいよおやじ臭さに拍車がかかっております。
私自身も、来年明けてすぐに転職ですが、年末から年度末にかけては別れの季節となります。
医療・介護業界は、人の異動が多く、今までに随分多くの方達と働いてきたなという感覚があります。
患者さんや利用者さんも入れると更に出会いや別れの数は多くなるのではないでしょうか。
退院だったり、サービス卒業、お亡くなりになる方もいたりと…まあいろんな場面で別れがありますよね。
私も年を取って涙もろくなりつつあるのか、別れの場面で、時折、泣くまでいかなくても、まあ泣きそうになる…いや、まあ時折、泣く。笑。
あるセミナーの中で「セラピストは泣いていいのか」見たいな問いが投げかけられていて、そういう視点もあるのかと考えさせられました。
いや、多分3回以上泣いてるな…笑。
この、泣いてもいいのか、よくないのか、少し考えていこうかと思います。
専門家、もしくはプロとして
泣いてはいけない、というのは、プロ、もしくは専門職たるもの、患者との距離感や自分の感情をしっかりとコントロールできることが善しとされているということなんだろうなと。医療においては感情労働という視点もあります。
聴講したセミナーの中で「専門家になるというのはある種、何かを病むということなのかもね」というような話がありました。
「普通」の生活の中では行うことのない、独自の視点で人を見る、という営みはやはりどこか「病的」なのかもしれません。
シニカルとは皮肉な態度や、冷笑的という意味のようですが、そうでないと専門家ではないのだといった言説も昔はあったようです。
専門職の視点に専門職自身が飲み込まれると、なんでもかんでも医学的な視点で見てしまう「医療化」の問題や、「あまりに科学的な医学」につながるのだろうなというのは、なんとなく今年考えていたことです。
そうならないためには、やはり専門職もどこか人間的な部分が残っていた方がいいのではないかと個人的には思っています。
巻き込まれないと、進まない?
なんでもかんでも医学的な視点で見てしまう文化に対等する形で出てきたのがオープンダイアローグを始めとする「対話」だと思っています。私もかなり影響されています。
言ってみれば問題の当事者として専門職も関わるということだと思っています。
巻き込まれるというと大げさかもしれないですが、問題に対する当事者意識を共有することが本質のような気がしています。
以前受けたオープンダイアローグの研修では、スタッフも泣き始めたりすることもあり…みたいな話を聞いたこともあるのですが、どうなんでしょうか?
スタッフをケアするスタッフもいるという話も聞いたことがあるので、問題の当事者になって対応するというのは、それなりに負荷のあることだとも思うので気を付けなければいけない所でもあると思います。
少しずつ人間らしいところに回帰している…?
かつて、というか私が学生時代には「転移には気をつけて」と言われていたのが、解釈がかわってきています。
個人的には「ない」ものとして扱っていたものを、しっかりと「ある」ことにして考えいこうとすることは賛成です。
私自身も、どのセラピストが支援しても、同じ支援ができるのが理想と思っていたときもありましたが、そうならないのはそこにやはり人と人との関係、つながりがあるからだと思います。
結局…?(汗)
さて、何を言いたいのかよくわからなくなってきましたが…。
結局のところ、私個人としては、まあ泣いてもいいじゃないですか、人間だものということでした。
そして、泣くくらいクライエントに共感したり、距離が近くなるのはどうなの?ということに関しては、意外と、問題の当事者になってみたり、ときには巻き込まれてみないと進めないこともあるというのは、なんか現場の肌感覚としてはあるので、そういう経験も悪くはないと思っています。
でも、そういったやや巻き込まれ型の臨床をしているときは、自分が壊れてしまわないように、理論などの専門知を使ってメタに俯瞰してみたり、他者に相談、話を聞いてもらうなどの配慮は必要かと思います。
齋藤環氏の言葉で締めようかと思います。
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