ヴァーチャルライバーと春季うつの私 7日目 最終日 (日記)
ヴァーチャルライバー「黛灰(まゆずみ かい)」くんのパーソナリティを模倣し、春季うつを乗り越えるための日記 Part7。
※注
この日記は大体の区切りで更新しているため、厳密に◯日目では無い。
私は黛くんの存在を最近知った、新参者です。
黛灰リスナーの方がもしこの記事を見て、不快に思ってしまったらごめんなさい。
春来ないじゃねぇか。もう夏じゃん。
【視聴したもの】
「【メンバー以外限定】おはよう作業配信」を見た。
「黛灰の物語」をやっと最後まで(ざっくりではあるが)見ることができたよ。
【メンバー以外限定】おはよう作業配信
書き起こしていて思ったけど、黛くんは本当に言語化が上手い。「解像度が高ければ高いほど目に負担がかかるのと同じで」っていう例えとか、わかりやすい上にこういうのスッと出せるのが凄い。話の内容も、結構センシティブというか、少しでも変な言い方をしてしまえば敵を作っちゃいそうな話題だけど、自分の持つ考えを誤魔化さずしっかり伝えている姿勢が素敵だなと思った。
音楽やお笑い、どんなジャンルの文化でも、必ず元ネタみたいなのはあって、初めは単純にこの人が作る作品が好き、っていうのから入って段々とその人のフェイバリットとかルーツとかを知っていって見識が広がるっていうのはあるよね。その人を作り上げているものを知ることで、新しいものが見えてきたり、自分の根幹を揺るがすような何かに出会えたりとかね。
黛くんの影響で、今演劇の本を色々読んでいるけど、学びがあって面白い。黛灰という人物を別の角度から知れるし、なんとなく、「あぁ、だから黛くんはこういうところが秀でてるんだ。」と気付けたり。生きていく上でヒントになるようなものが演劇にはたくさんあって、今まではただ好きな人だけがやるものだと思っていたけど、実際は今を生きる全ての人に重要な役割を果たすものだと知った。奥が深くて面白い。
黛灰の物語
「これを見ている人たちと、自分自身が違うからって、気にする必要なんてない。俺が住む世界は、俺にとっては現実だ。」
【(ざっくりと物語を視聴して)感想】
彼はバーチャルな存在(二次元)と現実の存在(三次元)における自身のありようを、この物語全体で問うていたわけだが、私はこの一連の物語の終着点に彼が語っていたことを、もっと自分自身に身近な問題として、彼の言葉を受け止めた。
※読まなくても可(もうすでに彼が投票によってどうなったかという結果を知ってしまっているし、彼の存在の不安定であった時期を体験できてはいないので、彼の作り上げた物語や彼を取り巻くバーチャルという環境について考察するよりかは、現在の私自身が彼の言葉を聞いて感じたこと、そしてたぶん今を生きている人にもこれは当てはまると思うので、それを書いていこうと思う。よって多分に自分語りになってしまうことをご了承願いたい。)
「自分がこのまま、仮想のまま、フィクションのまま終わってしまうのが嫌だ。」ここのセリフに何か共鳴するものがあった。そんなふうに考えることが常々ある。私はこうして文章を書いたり、絵を書いたり、本を読んだりする日々を粛々と営んでいるわけだけど、今のところそれらが日の目を浴びる機会には恵まれていない。誰かに褒められるわけでもなければ報酬があるわけでもない。もちろん、自分がやっていることっていうのはプロの仕事ではないし、たくさんの人に見られるべきものだと思っているわけではないのは前提として。
しかし、このまま何か「事故」が起きて、私という人間が死んでしまったら。今まで少しずつ、ゆっくりにでも築いてきたものはどうなるんだろうか。この世界を、悲しみややるせなさが多くを占めるこの世界を、なんとか生き抜くためにしてきたこと。語り継ぐ者も存在せず、ただこの世から抹殺される命の一つとして。そんなペシミスティックな妄想をしてしまう。
世間から見たら私がしていることなんて、非生産的な、お金にもならない、誰かのためにもならない、取るに足らないことだろう。掃いて捨てる人生。でも、この世界が私にとっては私の全てであり、現実なんだ。数少ない私と関わってくれている人、大切な家族、友達、病院の先生や手助けをしてくれる人たち、みんな私にとってかけがえのない大事な人だ。そして、今私の目の前にあるものは全て、良かれ悪しかれ自分の意志で選んできたものの結果で、いろんな失敗や挫折、紆余曲折があっての「今」なのだ。誰かのためではない、自分の人生だ。
彼の言葉を借りながらではあるが、そんなふうに思った。
◯
あとはまぁ、純粋な見た感想を書こうと思うけど、ヴァーチャルライバーを見ていて時折感じる刹那的な寂しさみたいなのが私の中であったんだけど、ヴァーチャルもリアルも大した違いはない、感情があって、大切な人がいて、楽しかった思い出があって、それは全て自分の意志が働いていることだからほんとうなんだ、といったようなことを、ヴァーチャルライバーである彼自身から聞けたことで、少し安心したような、でもそれって余計刹那的なものを増幅させていないか? でも人生ってそんなもんか、とも思ったり…。うーん、なんかひと所に気持ちが落ち着くものではないがとりあえず、彼の活動のコアを知れたのでそういう意味ではすっきりした気分ではあるかな。
終わりに
この日記を始めてから約2ヶ月ほど経ったが、やっと終着点を迎えた。前半の頃は本当に何も手につかないほどの具合の悪さの中で、なんとか黛くんの配信を見て文字起こしをしたり、黛くんの言葉を咀嚼しながら文章を打っている時間が、束の間私を癒してくれた。仮に黛くんに出会わなくとも、他のコンテンツから得るものでもなんとか生きながらえていたとも思うが、黛くんと出会って、鬱特有の偏った集中力で聴いた雑談は、他のコンテンツでは得られない何かを私に与えてくれたと、確かに感じる。一時的なコンテンツ消費では得られない「言葉」や、ものの見方、考え方を、黛くんが教えてくれた。
そして、面白いのが、初めの頃に掲げていたこの日記の目的「春季うつを乗り越える」の手段として挙げていたのが「黛灰のパーソナリティを模倣する」だが、これが日記を書いてる途中に気付いた、黛くんとムーミンの登場人物スナフキンとの関連性から、スナフキンの作中のセリフ「あんまり誰かを崇拝しすぎることは、自分の自由を失うことになる」にたどり着いたことで、目的の手段としての誤りに気付いたのだ。つまり、「君は黛くんにはなれないし、模倣しようとすればするほど自分を見失うことになるよ。」と黛くんによく似たスナフキンに気付かされたのだ。大事なのは黛くんのパーソナリティに近づくことではなく、自分が自分として生きていけるようになること。誰かの真似をするんじゃなくてね。
自分がしようとしていたことに対して「間違っている」と推しから指摘されるという最終的に不思議な着地の仕方をしたこの日記だが、やってよかったと思う。黛くんの動画のアーカイブは全然見れていないし、これからも消化できると思わないが、大体ざっくりと雑談、ゲーム実況、企画などを見て、黛灰というVtuberを私なりに知れたので概ね満足した。これからも、面白そうだな、と思った配信は見るし、全然見れなかったとしても、「あ、黛くん今配信してるんだな」と活動をしている様子だけでも知れたら十分だ。ただ、これは面倒なファン心理がどうしても働いてしまうんだけど、黛くんには幸せで在って欲しいな、と思う。以前、休養を発表した際に来る「いっぱいご飯食べてたくさん寝てね」みたいな応援リプに対しての違和感(でも配信はないのかみたいなプレッシャーを感じる的な話だったと思う違ったらスマソ)を話していたんだけど、正直「何がその人にとって幸せなのか」って難しい。私は黛くんが幸せだったら嬉しい。でもそれが、活動を止めることだったりしたら…。この気持ちに、折り合いをつけるのは難しいな。まぁ、その日が来るまでは、あまり干渉しすぎず、黛灰の配信に偶然「フラッ」と立ち寄った『通りすがり』のリスナード(オタク)みたいなポジションで、彼の活動を応援できたらいいな、と思う。
参考・引用
にじさんじ 黛灰オフィシャルチャンネル
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