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『ヒナ/可不,初音ミク-yanagamiyuki』と、パスカルの哲学


misery(ミザリー) =“みじめさ”

ー退屈と気晴らしについて考察するパスカルの出発点にあるのは次の考えだ。

 “人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。”

 部屋でじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてそわそわするということ、それにガマンがならないということ、つまり、退屈するということだ。たったそれだけのことが、パスカルによれば人間のすべての不幸の源泉なのだ。
 彼はそうした人間の運命を「みじめ(ミゼール)」と読んでいる。「部屋にじっとしていられないから」という実につまらない理由で不幸を招いているのだとしたら、確かに人間はこの上なく「みじめ」だ。
(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎著より引用)

 人々は、死もみじめさも無知も免れることができないので、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとした。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳,岩波文庫

 気晴らし
 …そして分かったことは、たしかに一つ実質的な理由があり、それは、私たちが生まれながらに不幸だということであった。不幸というのは、私たちがか弱く死すべき境涯に定められており、それを突きつめて考えると、何によっても慰められないほどみじめだからである。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳,岩波文庫


繰り返してるミザリー

私ひとりのセレモニー
相談している自分に
天の使いは交尾
繰り返してるミザリー

ヒナ/可不,初音ミク-yanagamiyuki

 yanagamiyukiの楽曲『ヒナ』に、パスカルの哲学を感じた。特に惹きつけられたのは、「繰り返してるミザリー」という部分だ。
 「ミザリー(misery)」とは上でも引用したが、「みじめさ」や「哀れであること」を意味する。パスカルは、人間というのは生まれながらにして不幸でみじめな存在であり、その動かし難い事実から気を逸らすために、必死に働いたり人と交流したりといった「気晴らし」をしてやり過ごしているという。

 ー「気晴らし」は、パスカルの人間学のキーワードである。それは、仕事や心配事に集中している気持ちをそらせ紛らせる活動、とりわけ余暇に行われる娯楽であるが、彼はその意味を拡張して、まじめな仕事を含めた人間活動のいっさいを気晴らしと見なしている。(『パンセ(上)』訳者による注釈)

 人間は「みじめさ」から逃れることはできない。それはおそらく死ぬまで付き合っていかなければならない。どんなに名誉のある人間でも成功した人間でも、その人が抱える虚しさを他人が知ることはできない。「繰り返してるミザリー」という詞から、そういう「この世のやりきれなさ」みたいなものを読み取った。


数分、世界を見る 自由に

 「人間は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉だ。

 人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すのには十分だ。しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだ。宇宙はそんなことは何も知らない。
 こうして私たちの尊厳の根拠は全て考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。
 だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳,岩波文庫

 どんなにみじめでも、人間活動のほとんどが「気晴らし」に過ぎないとしても、人間には一つの特権がある。それは「考えることができる」ことだ。人間は自分の命がいつか終わることを知っていて、限られた時間/空間の中で自由に振る舞うことができる。自分に与えられた環境の中で、いかに生くべきか考えることができる。

 私たちと地獄あるいは天国の間に横たわっているのは、私たちの人生だけだ。そして世の中にこれほどはかないものはない。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳,岩波文庫

 「考える葦」と上のパスカルの言葉は、『ヒナ』の終盤の歌詞に呼応する。

私たちのセレモニー
生まれてすぐ
シュレッダーに
落ちていく雛みたいに
数分、世界を見る
自由に

ヒナ/不可,初音ミク-yanagamiyuki

 ここに私は希望を見た。どんなに人間の命が儚く、惨めな存在でも、生まれ落ちて死ぬまでその限られたわずかな間に、自由に世界を見て、自由に思考することができる特権を、人間は持っているのだ。




*

 「限られたわずかな間に自由に世界を見る」という文章を書いてる時に、思い出した詩があった。作家・井戸川射子さんの『それは永遠ではない、もっとすごい』という詩だ。人間のみじめさ、不完全さを肯定しつつ、この世界を信じさせる何かを感じさせる力強さがある詩だ。

私たちはものを知らない同士だ
危なかった、出会えない可能性もあった
終わりある、通り過ぎる、速度のある中にいる
それは永遠ではない、もっとすごい

『群像』2023.3月号,講談社

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