受験生の岐路、母として
18歳、子どもなようで、大人の手前、とても微妙なお年頃。
バリから帰ってきて、私はこんなことにふさぎ込んでいました。
子のメソメソが私にも
18歳の岐路で、動けなくなっていた娘がいた。
受験というものにつきものは「プライド」。自分は勉強が出来ないほうではない、と自負する子とって、全国区の戦いで自分の理想まで届かない模試の結果やテストなどで「君はそんな出来るほうではないですよ」を突きつけられるのは、キツイ瞬間だろう。
特にこの時期、周りが推薦などで続々と決まる中、焦りや不安も相まって、過呼吸すれすれのパニック状態。
それはひとえに「今の足元を直視する」ことの怖さと、それを引き受ける勇気。これが沸き出ず、次の一歩が踏み出せなくなるくらいぺしゃんこになっていた。
こういう時、母というのは不思議なもので、話を「ふんふん」と聴いているうちに、共感どころか「同感」、何ならその思い「憑依してまっせ」「ってか本人!」レベルで同じ気持ちになり、私まで涙がでてくる始末。完全に気持ち女子高生。図々しいけど。
泣きながら「母と子の臍の緒パワー、すごーい!」と感動。そんな場合じゃないってば。
ちょっと私の話を
私の18歳の岐路たるや、ひどかった(笑)。これほど世の中の情勢を恨んだことはない。もはや私の希望や実力とかそれ以前の話という、笑うに笑えない事情が、そこにはあった。
時は平成、バブルが崩壊しやや不景気の風が吹き始めた頃。のんきな田舎の高校生だった私は、それこそ普通に大学に行って、3年生あたりで留学するという、バラ色の学生生活を描いていた。
が、ある日父から。「いやー、四大は無理だ!パパの仕事も前ほど好況じゃないし、お姉ちゃん音大でお金かかってるし」と。
あれ?おかしいぞ。我が家思ったより貧しいぞ!
追い打ちをかけるように「いやー、この景気じゃ、素人目に見ても4年後に就職先なんて無いぞー、特に私立文系の女子なんて」とと、当時を色濃く反映するジェンダー発言ありまくりだが、短大にしとけと言う父の話にも一理ある。
その前に「無い袖は振れない」んだけど(笑)。
理想と現実に悩みながらも、私が出した折衷案は「短大+1年の中国留学の3年ライフ」。どうしても外を見たかったことと、海外の留学先としては当時激安だった中国。無い袖の中でも頼み込んだ結果、これで納得してもらった。
今でもあの時の父と2人で話した時間を覚えている。そして、行きたかった四大は本当に記念受験だけさせてもらい、短大に進学し、卒業後に北京に渡った。
ま、今振り返れば、これで良かった、いやこれしか無かったなと思っている。
話戻り、娘
学力オンリーの一般入試は、フェアな分、残酷極まりない勝つか負けるかの大勝負。そしてその過程で傷つく自尊心という名のプライドや引き受けなければならない自分の弱さ。ざわざわと巻き起こる感情や、流す涙も葛藤も、自分至上初の経験で、動揺するのも当然。
苦しくて逃げたくなる時もあるだろうし、ふさぎ込んだり泣きたくなることもある。でも、チャレンジした人にしか見えない景色というのも、実際あるのではなかろうか。
私はチャレンジ手前で断念せざるを得なかったので、この景色は見たことがない。だけど、いやだからこそ、母からはこう伝えた。
「情けなくても、涙流しても、弱くても、そんな自分でもいいじゃん。それでも最後でやりきってみな。それが、いつか辛いことにぶち当たったときに、この経験は、あなたを支えるお守りになる。絶対。」
ここまでは、親が雨風をしのぐ安全な場所を一生懸命作ってきました。ここからは、自分でそれをこしらえていく番。
「自分で経験した」という傘があることで、どしゃぶりでも歩いていけるんのではないかな。
AIで何でもできる時代でも、「愚直に頑張った泥臭さ」はその人にしかできない。
走れるだけ走ってください。辛いけどひとりで走ってね。母は後ろからあなたがいることを目で追いながら、遠くから応援しています。
頑張れ我が家の受験生。18歳の春には、どんな景色が見えているでしょう。
12月11日 サカシタカオリ