見出し画像

「金魚」

雲一つない秋晴れの昼間。ハローワークで沙織は、掲示されているいくつかの求人情報見ていた。それはまるで、美術館で絵画でも眺めているかのように、表面をなぞるばかりで、内容は全く頭に入ってこなかった。ビルの5階のこの場所は、窓が大きく、下に目をやると、スーツを着たサラリーマンや、大学生と思われる若者が世話しなく行き交っているのがよく見える。無職である沙織は、このビルの下を歩く誰よりも自由であると思えたが、実際、沙織の足は鉛がついたように重く、頭の中もぼんやりしていた。

沙織の家には大きな水槽があり、その中では何匹かの金魚が泳いでいる。夫である直樹の趣味で、魚が泳ぐ姿を見ると心が落ち着く。そう言っては、毎晩夕ご飯を食べた後などに、決まってキッチンの椅子に掛けながら、水槽を眺めていた。その大きな水槽を、週に一度、沙織は風呂場で洗う。風呂桶2つに金魚を分けて入れ、空いた水槽を洗っていく。小石・水草を、洗った水槽に戻し、水を入れ、金魚を戻そうと風呂桶を手に取った時、ふと沙織は、この金魚を、すべて排水溝に流してしまいたいという衝動に駆られた。しかし、そんな沙織の高ぶりも知らぬ素振りで、水の中では金魚たちは、尾びれをふわふわと揺らしながら、ゆっくりと泳いでいた。

夕方6時。沙織はPTAの集まりに参加するため、息子である翔太の通う学校を訪れた。小学1年生というのは、2年生や3年生に比べると、特別な行事が多く、やらなければいけないことも多いため、この年のPTA役員になることは誰もが避けていた。そんな中でも主婦である沙織は、目を付けられやすい存在であった。働く母親はとりわけ仕事を盾にし、鉄壁の防御で応じていた。ママ友もいない沙織にとっては、他の母親から援護射撃をうけることも叶わない。昔から、こんなことばかりだったなと、沙織は思い返していた。そしてその度に、水槽の中の金魚になったような気分になるのであった。周りの声は水の中で聞く時のもののように遠くに感じられ、体はふわふわと浮くような感覚になった。結局、沙織の意識が遠のいているうちに、まさに外堀から埋められる方で、沙織はPTA役員に任命される形となった。

家に帰ると翔太はリビングで一人、大好きな戦隊ものの人形を戦わせて遊んでいた。直樹も帰ってきているはずであったが、姿は見えず、上の階から気配を感じるのみだった。翔太は体が強くなく、外で走り回ることが少ないせいか、肌の色は抜けるように白く、性格も控えめで、いつもどこか微笑んでいるような表情をしていた。沙織の帰宅に気づいた翔太は、おかえりという前に、「金魚さんたちに海を見せてあげたい。」と言った。こんな風に、翔太はたまにではったが、沙織の理解を超える発言をすることがあった。沙織は、翔太くらいの歳の子には決まってあるものなのか気になってはいたが、ママ友のいない沙織にとっては知る術がなかった。しかし沙織は、その発言に翔太なりの優しさを感じ、翔太を愛おしく思った。

その日、直樹の運転する車で、海に向かった。翔太の小さな体は丸い金魚鉢を抱えている。翔太は時折、金魚鉢を上に掲げ、金魚たちに窓の外の景色を見せながら、しきりに何か説明していた。海に着くと、翔太は、早く車から降りたい気持ちと、金魚鉢を慎重に運ばなければという気持ち入り交じったためか、愉快な動きをし、沙織たちを笑わせた。普段であれば釣り人がいそうな防波堤であったが、その日は沙織たちのみであった。防波堤ぎりぎりまで近づこうとする翔太に、沙織は緊張していたが、翔太は楽しそうな表情を浮かべていた。

と、その時、翔太はおもむろに金魚鉢を海に向かってひっくり返した。その瞬間は、沙織の目にスローモーションで映ったように見えた。ひっくり返された金魚鉢からおちる水は、かたまりようであり、その中に金魚が内包されている。その様はとても美しかった。しかし、それもつかの間、我に返った沙織が隣にいる直樹に目をやると、直樹は、悲しみと、怒りと、驚きが、ごちゃ混ぜになった表情をしていた。それを見た沙織は思わず笑いそうになった。翔太は嬉しそうに沙織たちに駆け寄り「金魚さんたちはぜったい海のほうが広いからいいんだ」と胸を張って言った。

その日を境に、沙織は気分が不安定になっていった。鬱のような傾向が続き、直樹や翔太と生活をともにすることが難しくなっていった。直樹の母親は、そんな沙織の状態を好ましく思わなかったため、別居をすすめてくるようになった。沙織にとっては、別居という宙ぶらりんな直樹との関係が、より精神を不安定にさせる要因となり、離婚を望むようになった。沙織のこの要望は、直樹の母親にとっては、願ったりかなったりだったようで、あっという間に煩雑な離婚の手続きは済んだ。さらに、主婦であった沙織に、別居・離婚を差し迫った直樹の母親から、当面の間の生活資金を援助してもらうこととなった。そして、翔太の親権については、直樹が持つことになった。医者である直樹の跡取りとして、翔太はとても重要であったのだ。

ハローワークを後にした沙織は、ふと、あの日、翔太が海に放った金魚たちのことを思い出した。きっと金魚たちは、ものの数分で死んでしまったかもしれない。それでもきっと、金魚たちは泳ごうとしただろう。沙織は、一つ深呼吸をしてから、ゆっくりと歩き出した。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?