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「豚」

ある日、目覚めると私は豚になっていた。

可愛い桃色の仔豚ではなく、丸まると太り泥に塗れた家畜だった。
なぜそうと分かるのか。鏡もないので自分の姿は見えないが、私の周りには同じような家畜の豚が数十匹いたからだ。そして私がなぜ豚になった事実に驚きもせず納得しているのか、これにも理由がある。

私は前世、人殺しだった。金に困って老夫婦を殺害し、強盗を図ったがすぐに捕まりそこから刑務所暮らしをした。

刑務所では宗教講話があり、仏教の世界では「六道」なるものがあることを知った。生前の行いにより「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」のどこに生まれ変わるかが決まるというものであった。宗教講話をきっかけに熱心に教えを乞うようになる受刑者もいたが、私は違った。仏教という一つの世界を知るに至ったのみで、それを信仰しようという気にはならなかった。

しかし私のように人ふたりを殺めても「畜生道」にとどまることに自分のことながら疑問を感じ、果たして「地獄」というのはどのような罪を犯したら到達できるのか、などと考えるほど私は冷静であった。

そんな風に考えを巡らせていると、ある一匹の豚に目がとまった。

それは私が学生の時に思いを寄せていたA子さんであった。

私ははっとしたがもちろん人間の言葉は発せないため、頭の中でA子さんに呼び掛けた。「俺のこと覚える?」A子さんはこちらを見て「うん」と返した。もちろんむこうも話せないので、「うん」の返事は私の脳内で鳴っている音に過ぎなかったが、確かにA子さんの声色であった。

「どうしてここに?」私は思わずそう聞いたが彼女は答えようとはしなかった。私の中でA子さんの姿を反芻する。線が細く長い黒髪が制服によく似合っていた彼女の姿を。しかし今ではこの豚舎で一番肥え太っているのはA子さんであった。

そんなことを思っていると、豚舎に人間がやってきた。私たち豚を上から舐めまわすようににらみつけ、ある一匹の豚を指さした。それはA子さんであった。A子さんはあっという間に人間たちに運び出された。その時、私の頭の中にA子さんの微笑みが浮かんだ。それは私が知っている制服姿のA子さんではなく、私が知るはずもない大人になったA子さんの微笑みだった。

それはとても美しく。夢のような光景であった。

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