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「リボン(後編)」


ある日の朝、僕たちはいつものように朝食を食べた。エミリーはいつも僕に微笑みかけながら朝食をとるのだが、その日は様子が違った。朝食を食べ終えた僕は、エミリーとの積み木遊びを楽しみにしていたが、エミリーが積み木を持ち出すことはなかった。その代わり、エミリーはどこかへ出かける様子で荷造りをしているようだった。僕はその様子をじっと座りながら眺めていた。エミリーは主に衣服を鞄に詰めているようであったが、その目は虚ろであった。一通りの支度が終わったのか、エミリーは最後に僕を抱きかかえ、静かに部屋を後にした。お母さんの運転する車に、エミリーと僕は乗り、エミリーは僕を膝の上に乗せたまま、視線は車の外に向けられるばかりであった。

しばらく走った車は、大きな建物に到着した。僕はこんなに大きな建物はデパートくらいしか知らなかったが、どうやらそのような楽しい場所ではないらしいことは分かった。建物の中に入ると、壁や床が白く、とても清潔な印象だった。その中にいる背丈の高い人たちは、てきぱきと動く人と、のろのろと動く人の2種類がいるようだった。お母さんとエミリーは足取りが重い様子で建物の中を進んでいき、一つの部屋に到着した。その部屋には白いベッドと椅子が数脚あるのみだった。しばらくすると部屋に白い服を着た男の人が入ってきて、何やらお母さんとエミリーに話しかけているようだった。それが終わると、男の人は部屋から出て行った。「今日からしばらくこのお部屋で過ごしてね。」お母さんはエミリーに優しく声を掛けた。エミリーは俯きながらも小さくうなずいて応えた。「また明日来るわエミリー。」そう言いお母さんは部屋を後にした。残されたエミリーは白いベッドに腰かけ、窓の外をぼんやりと眺めた。

夜になるとエミリーは着替えをし、ベッドに潜り込んだ。「今日からはしばらくここで過ごすことになるわ。ここは病気をする人が来るところなんだけど、私はたまに胸が苦しくなることがあるの。でもほんとにたまに。ボリスも私が元気なのを知っているでしょう。でもお母さんは心配なのね。」エミリーは僕の頭を撫でながらそう話しかけた。「一人はやっぱり寂しいわ。お母さんに会いたい。」エミリーは僕の体を強く抱きしめながら眠りについた。

ここでの生活はエミリーにとって楽しいと言えるものではなかった。エミリーの体を心配する大人たちは、エミリーに様々な制約を課した。食べるもの、外に出て遊ぶ時間、お母さんと話す時間。そのどれもに対してエミリーには不満を抱いていた。ここにきてからというもの、僕はエミリーの口から、寂しい、悲しい、という言葉ばかりを聞くようになり、エミリーの表情も暗くなる一方であった。

そんなエミリーにも、毎月楽しみにしていることがあった。それは、ここで毎月1日に開かれる演奏会だった。演奏会の日は、エミリーと同い年くらいの子どもたちが集まり、皆で音楽を聴くのであった。僕も演奏会の日は楽しみだった。いつも暗い顔をしているエミリーも、その日はとても明るい表情で僕に微笑みかけてくれるからだ。「明日は12月1日だから演奏会の日よ。どんな曲が聞けるかしら。ボリスも楽しみでしょ。」僕は心の中で大きくうなずいた。そしてエミリーの温かな体温を感じながら眠りについた。

次の日の朝、目が覚めると僕の体は冷え冷えとしていた。薄いカーテン越しから外に目をやると、静かに雪が降っていた。エミリーのほうに目を向けると、エミリーは静かに眠っているようだった。しかし、エミリーからはいつもの温もりが感じられなかった。僕は不思議に思いながらも、いつまでも、いつまでも、エミリーの腕の中で時間を過ごした。

12月24日。今日はクリスマスイブだ。エミリーに会えなくなってから、すごく長い時間が経ったように僕は感じていた。ある日、僕はお母さんに連れられこの家に来た。それは、僕を買ってくれたエミリーのおばあちゃんの家だった。お母さんは涙を流しながら、おばあちゃんに僕を引き渡した。おばあちゃんも深くうなずきながら僕を優しく手に取った。おばあちゃんは前後にゆっくりと揺れる椅子に腰かけながら、何かを手に取り眺めているようだった。そしてテーブルの上にいる僕にゆっくりと近づき、手に持っていた何かを見せてくれた。それは、エミリーが書いた絵だった。エミリーはいつも絵を書くと、サインのように決まって紙の右下にピンク色のクレヨンでハートマークを書いていた。おばあちゃんが見せてくれた絵には、そのハートマークがあり、すぐにエミリーが書いた絵だと分かった。そして僕は、エミリーの書くそのハートマークが大好きだったことを思い出した。その絵には、深い緑と青のタータンチェックを着けたテディベアが描かれていた。僕はおばあちゃんの膝の上に乗り、温かな手の温もりを感じながら、いつまでも、いつまでもその絵を眺めていた。


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