芥川龍之介『トロッコ』~重層的な対比構造について~

昨年、中学1年生とともに芥川龍之介の『トロッコ』を学びました。この作品を最初に読んだ時、僕には多くの対比が見えたのです。せっかく読み取れたので、その一部を書き残そうと思います。

・中学の授業で習った人
・これから定期試験をひかえている人
・授業構想を考えている先生方

の、ほんの少しの助けになれば幸いです。

※なお、ここに書くのはあくまでも個人的な見解であり、ここから議論が広がることが文学教育の存在意義の1つだと思っています。


1.仕事へのプライド

 『トロッコ』において、最初の場面は「トロッコに憧れをもつ良平とその仲間たち」を描いており、『トロッコ』における良平の人物像が設定されている部分になります。ここでは、子供だけでトロッコに乗ることに成功しますが、土工に見つかってしまうのです。

良平は年下の二人と一緒に、またトロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後ろには、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞こえ出したと思うと、急にこういう怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
 そこには古い印ばんてんに、季節外れの麦わら帽をかぶった、背の高い土工がたたずんでいる。―― そういう姿が目に入ったとき、良平は年下の二人と一緒に、もう五、六間逃げ出していた。

二度目のトロッコチャンスは十日余り経ってから訪れます。良平はまた、トロッコを眺めていました。

すると土を積んだトロッコのほかに、枕木を積んだトロッコが一両、これは本線になるはずの、太い線路を登ってきた。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼らを見た時から、何だか親しみやすいような気がした。「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコのそばへ駆けていった。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、―― しまのシャツを着ている男は、うつむきにトロッコを押したまま、思ったとおり快い返事をした。
「おお、押してくよう。」
 良平は二人の間に入ると、力いっぱい押し始めた。
「われはなかなか力があるな。」
 他の一人、―― 耳に巻きたばこを挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。

 ここで注目したいのは、土工の対比についてです。最初の「背の高い土工」は、トロッコに近づく良平たちを怒鳴りつけています。一方、「若い男」たちは、良平がトロッコを押すことを承諾しています。子供を自分の職業の領域に入れる「若い男」と、職業の領域に入ることを拒否する「背の高い土工」。ここに表れているのは、仕事に対するプライドや仕事に対する責任感ではないでしょうか。自分の仕事に誇りを持っているからこそ、安易に踏み込まれたくない。その気持ちが「背の高い土工」の怒声につながっていると思います。
 ちなみに、ここでの対比から、短気な「背の高い土工」と、心の広い「若い男」とも読む人がいるかもしれません。文学の読解は多様であるからこそ深まるので、否定するつもりはありませんが、僕はそうではなく、無関心な「若い男」と読んでいます。根拠は次の描写です。

その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へ入ったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」―― 彼はそう考えると、ぼんやり腰掛けてもいられなかった。
(中略)
 ところが土工たちは出てくると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう言った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向こう泊まりだから。」
「あんまり帰りが遅くなるとわれのうちでも心配するずら。」

 いやいや、そんな大事なことは早く言ってくれ!
 「若い男」たちが良平のことをそれほど本気では気にかけていないこと、無造作に、つまり重大なことと考えずに気軽に言っているところから、良平への無関心さが読み取れるでしょう。良平がトロッコに触ろうが触るまいがどうでもよかった!もしかしたら、思慮の浅い人たちだと見てもよいかもしれません。
 この点をふまえて、あえて「背の高い土工」と「若い男」を対比して描いていると考えると、「背の高い土工」は子供の安全や成長などに関心を向ける人物だとも言えそうです。「厳しい」と見られがちですが、その裏には「(血のつながりに関係のない)子供への愛情、思いやり」があったのでしょう。

2.往路と帰路

 中学で授業をするとこの点について取り上げる先生もいらっしゃるかと思います。とにかく、往路と帰路での対応がかなりきれいです。


上と下で対応させてみましょう。

①みかん畑について
 良平の心情を描写しているため、授業でもよく取り上げられています。トロッコではしゃいでいたときは、上記のようにみかん畑の「黄色」が象徴的であり、夕暮れになり不安が募る良平の心情は、「竹やぶ」「雑木林」「薄ら寒い海」のように描写されます。
 帰路でも「みかん畑」は描写されますが、「黄色」や「明るさ」は全面に出ていません。「あたりは暗くなる一方だった」とあるように、「暗さ」に注目させるような記述になっています。

②羽織
 トロッコに乗っているとき、その高揚感が良平の様子に表れていました。「みかん畑の匂いをあおりながら」や「羽織に風をはらませながら」という描写がそれにあたるかと思います。
 帰路で、羽織を捨てるということは、高揚感を抱いていた時間との決別、少し深読みすると、トロッコとの決別を示しているのではないでしょうか。
 この点は、菓子包みの描写にも表れています。菓子包みには「石油の匂いがしみついてい」ました。トロッコを連想させる「菓子包み」を捨てたということも、トロッコとの決別につながっているのではないでしょうか。

3.子供の世界と大人の世界

 『トロッコ』の最後は、良平が二十六歳になった様子が描写されています。

良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、そのときの彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?―― 塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗いやぶや坂のある道が、細々と一筋断続している。・・・・・・・・・・・・

 この描写が八歳の良平の様子と対応している、対比しているとよく言われます。「薄暗いやぶや坂のある道」は八歳の良平が経験したように、不安や先行きの不透明さを表していると読解されるところです。
 また、当時の良平の状況と対比させると、不安や恐怖を前に逃げることのできた八歳の良平と、妻子のいる身であるために先の見えない道をひたすら歩むしかない二十六歳の良平の対比、一般化して、自由な選択のできる子供と責任を負わされる大人という対比まで見えてきます。
 このように考えてくると、大人になるとはどういうことか、ということもテーマになるのではないかと思えてきます。そしてこの点は、ある文章と比較読みをするとより深まるのですが、またの機会に書こうと思います。



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