アドリア海

 ずっと前から自分でも理由を説明することは出来ないが、なぜか死ぬときは訳の分からない異国で死にたいと思っている。死ぬ間際に、あ、俺ここで死ぬんや。よくよく考えてみればなんでこんなとこにいるんやとツッコミを入れて死にたい。
 昔この奇妙な願望を人に話してみたら、拗らせもここまでくるとな…と言ったような類のことを言われたような覚えがある。確かに自分でも、将来はアドリア海の片隅の教会にキリスト教なんてまったく知らないのに、骨を埋めようなんてほざくやつはちょっと友達には要らないと自分でも思う。
 しかし、なんというか代わり映えのしない日常の果てにこの日本に骨を埋めることになってしまうのは些か面白みに欠ける。やっぱり大団円とまではいかなくても果てには何かあってほしいし、理論も整合も置き去りにして滅茶苦茶になっていてほしい。

 小説を書けば、書くほど自分の中に何の主張もなく、何ら拘りの存在していないことを感じる日々において、ほんとに聞いたこともない異国の地で死にたいという奇妙な拘りには何が潜んでいるのか。オタクの拗らせにすぎないのだろうが、もしかしたら自分の中にある数少ない主義主張に含めてもいいかもしれないのだろうか。

 小説は本当に書くのが難しい。気が付いたら自分ばかりが顔を出す小説に成り果てていて、とても人に見せられるようなものにならない。太宰とか、安吾とかがぱっと思いつくが、その人となり自体が面白みがあればいくらでも作者が顔覗かせてきても差し支えないのだろうか、自分はそうはいかない。
 まあ気長にやるしかない。近頃、あまりにも社会に出ていこうとして拒絶されることが多すぎて、ゆっくりと生きていくことにした。向いていないことに躍起になっても仕方ないと、読めていなかった本や映画をしきりに観ていたら、このnoteの存在を忘れてしまっていた。死ぬまでに何か形に出来るといいな。何も出来なかったとしても、それはそれで別にそれでいい。
 

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