櫻坂46『五月雨よ』から汲み取る楽曲解釈と表現
1. はじめに
2022/4/6にリリースされた櫻坂46の4thシングル『五月雨よ』は、恋愛感情の切なさと儚さを詰め込んだ曲である。今作の歌詞は、とてもストレートに書かれており、情景描写も明快である。故に、一般的な解釈云々は、とりわけ必要のないものだと感じていた。しかし、メンバーの表現を見るたびに、性愛を超えた“大きな愛”を感じ取れる。その根源について、自説をもとに語っていく。
一個人の勝手な見解であるので、鼻で笑いながら読んで頂けたら幸いである。
2. 『五月雨よ』に於ける愛とは
愛には四つの分類があると、古代ギリシアの時代に提唱されたのだが、それが性愛(エロース)、友愛(フィーリア)、家族愛(ストルゲー)、真の愛(アガペー)である。一つ一つの愛を事細かに語りたいという訳ではないが、この中でアイドルの愛に関する楽曲の大半が性愛、つまり一般的な恋愛に関する歌だということが重要になってくる。例に漏れず、『五月雨よ』も恋愛感情を謳った曲であり、そこについての異論は恐らく存在しないだろう。先述した通り、本楽曲はストレートな内容であるので、この恋愛という解釈が一般的であるどころか、この解釈が正しいと言っても何ら問題はないほどである。さてここで、EX大衆の2022年5・6月合併号に於いて『五月雨よ』について語った、武元唯衣のインタビュー記事を引用したい。
恋愛の曲ではあるんですけど、リアルな気持ちは分からないから、家族やメンバーのことを思いながらパフォーマンスしています。誰か1人に対しての愛が溢れる曲だと思っているので、毎回、違う人を頭に浮かべて、(中略)自分にとって一番感情を出せる人を模索しています。
(引用:EX大衆 2022年5・6月合併号(出版:双葉社))
恋愛の曲であると解釈しながらも、性愛を友愛や家族愛へと転換させ、表現に落とし込む作業をしている。中身を素直に捉えれば恋愛であるが、大きな視点で捉えれば、というよりもこの曲の根幹・軸となっている要素を捉えれば、この楽曲は“誰か1人に対する溢れる愛”であると解釈したのだ。確かに解釈の一つとして、愛の根源を捉える見方や抽象化をして愛を広く捉える見方は往々にして存在し、ズレのないものである。しかしながら、一旦は恋愛として捉えたものを、再解釈を用いて自分のフィールドに引きずり込み、愛を表現しようと試みるのは些か興味深い内容である。つまりは、『五月雨よ』に於ける愛とは、性愛という一般認識を音源に内在させながらも、メンバーの再解釈を経て、友愛や家族愛に転換させた“大きな愛”、“広い愛”であり、そんな様々な愛を乗せて表現した楽曲であると考えられる。サンプルが1人である以上、この考察が正しいと言えないのは重々承知であるが、この作業が少なくとも存在している事実は、面白いと個人的には感じる。
3. 本楽曲の再解釈における起点
上記で示したように、楽曲の再解釈という作業を楽曲表現に組み込んでいるが、この経緯も興味深い。それは、“恋愛感情がわからないから”である。この言葉の真意は、観衆である我々から断定することは不可能だが、大方二つに分けられる。
一つは、文字通り恋愛感情を理解していないということで、この見解に基づくと、理解出来る感情の中で、楽曲の内容に一番近しい感情を選択し表現を行ったということになる。これは、表現に於ける賢明な判断ではあるが、一方で真にこの楽曲を表現したと言えるのだろうか。
もう一つは、恋愛禁止という建前に基づいた強制的な再解釈である。この見解は、アイドルの特性が楽曲解釈を変容させ、表現を抽象的にさせる、もしくは表現を道徳的にさせるといった歪さを可視化させる。世間に染み付いてしまっている恋愛禁止という通念は、当然のことながら作詞者も理解しているであろう。であるならば、性愛の曲に対する解釈の変容は既に予期されたものであり、大きな愛を奥底に内在させて、メンバー自身に引き出させようという意図があるのではないかと考えたくなる。何れにしても、旧態依然の思想が表現の幅を広げてプラスに転じるのは、奇妙であり、歪な現象である。
他方、余り考えたくはないが、可能性として、恋愛禁止という建前を公で表するために発言したまでであり、実際は性愛の楽曲として解釈も表現もしているという場合も存在する。無論私は、インタビュー記事という媒体でのパブリックな発言と、彼女たちの飽くなき表現欲に信頼を置いているので、この場合は考慮しないものとする。
4. 楽曲解釈という構造の稀有性
そもそもの話だが、楽曲を解釈するという作業自体が興味深い内容である。というのも、所謂アーティスト・ミュージシャンと言われる人たちは楽曲制作、つまりは作詞、作曲、編曲等の音楽を形作るものに携わるのは至極当然の話であり、楽曲を解釈するという作業は無論存在しない。“製作の段階で感情を組み込むから”というよりも、歌いたいこと、伝えたいことが存在するからこそ楽曲が生まれるのであり、故に表現と歌詞内容は一対一の関係である。この場合、歌詞解釈という作業を行うのは、リスナーである我々である。
これが一般的な楽曲とリスナーとの関係性であるが、殊アイドルに関しては、楽曲→リスナーの間にアイドル自身の解釈が組み込まれ、楽曲→アイドル→リスナーになる。これによって、我々は音源の解釈と並列で、アイドルが解釈し表現したものをさらに受け取るという構図が出来上がる。私は、パフォーマンスを見て自身の解釈とのズレを感じたことが多々あり、そのズレに関して、以前書いたBANの歌詞解釈でも述べたのだが、その理由がこれである。自明のことではあるのだが、アウトプットして初めて気にし始めた構造であり、他ではあまり見かけない稀有な特性であるなと痛感した。この漠然とした楽曲表現のズレは、ある種足枷のような負の側面が大きいようにも思えるが、“楽曲を二度楽しめる”、“メンバーの解釈を通した感性を楽しめる”、“並列で存在する異なる楽曲の様相が時として、楽曲の感情を多重化し、返って深みが増す”などの利点もあるとも感じられるのだ。また楽曲の視点から考えると、解釈の立場に立っているメンバーは、我々リスナーと同じ立ち位置にも存在する。リスナーでありながら、表現者としても伝えるアイドルという立ち位置は、唯一無二の存在である。
ここで、カバー曲も同じ構造ではないのかという考えが生じる。確かに構造的には同様であるが、アイドルの稀有性の根幹は自身の楽曲であるというところにある。自身の楽曲でありながら、その楽曲が内在させる意味を100%伝えるということが不可能であるという歪さに、興味深さが孕むのであり、カバーとは異なる特性である。この作業に一番近いのは、再録版であるが、これもまた年月を経たことによるアーティスト自身の変化や技術的な進歩を反映させるもので、これもまた少し違うことから、やはりアイドルが行う楽曲解釈という特性は唯一無二なのだ。
5. あとがき
今回『五月雨よ』に関する歌詞の再解釈から、その構造の歪さや稀有性を語ったが、こういった再解釈は以前から行われていた。櫻坂になってから公的に話すようになった印象だが、始まりは『なぜ恋をして来なかったんだろう?』の披露時に、藤吉夏鈴が"私なりの解釈"でと発言し、更には“各々で解釈を”と投げかけたことだと個人的には記憶している。同様に恋愛曲であるこの楽曲を再解釈することが、櫻坂としてのアイデンティティを確立する上で重要な一歩だったという認識は、時が経つに連れて増すばかりである。
また、このような歪な構造に似たものに、集団で“個”や“孤”を謳うこと、歌詞を託す側を否定する意が内在したものを託された側が謳うこと等が挙げられる。前者は不協和音、黒い羊、後者はサイレントマジョリティーが代表的であるが、こういう歪さもまた興味深い事象である。
このnoteを綴るきっかけになったのはインタビュー記事ではあるのだが、ここまで熱量を持って吐露したくなる感情は久々であり、きっかけさえあれば、ここまで綴れるほど『五月雨よ』の魅力に飲み込まれていたのだなと感じる結果となった。櫻坂になり、システムに対して嫌気がさしていようとも、それを補って余りある求心力は、音楽と彼女たちが発露する表現に宿っているのだなと。
これから櫻坂の表現がどの様に変遷し、グループは何処に行き着くのか、そんな期待と楽しみを抱えて、変わらず追いかけていこうと思う。
一介のファンの戯言を読んで頂きありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?