すべてのものは存在するだけで善である
「これを本当に理解してくれた学生は今まで片手くらいしかいません」と、どんな感情の笑みなのか、ともかく笑いながら、教授が大教室を見回していた記憶がある。
私は理解できなかった側の人間で、そのうえ自意識の強い俗物だ。
一丁前に悔しがりレジュメにメモして、その後一週間くらいは風呂やトイレや、布団の中や、別の講義の間、ずっと考えていた。
有名な一節なのかと調べるとおそらくキリスト教の神学由来の考えだろうか、はたまたご本人の哲学なのだろうか、尋ねておけばよかった。
そこまでやったくせにしばらくすると生活に紛れ、頭の中からどこかに行っていた。
のだが、少し前、覚えていないくらいなんでもないタイミングでフッと腑に落ちて、理解できた気がする。
とはいえ勝手な解釈で腹落ちしただけのことだから、教授の伝えたかった本質を受け取れたとするのは傲慢だと思う。
いかんせん半端に幼い。知識も経験も足りなさすぎる。
短文主体のSNSを見ていると教育が、出生率が、給料が、思いやりが、尊敬が、足りない、足りないと、喉が渇きヒリつくような、「現実」に近い場所にある文字ばかりが脳に焼き付く。
一方、彩り鮮やかで眩しい画像が投稿されているほうのSNSは、それぞれの華々しい交友・交際やスキルアップ、自己実現、芸術、ありていに言えばさまざまな年代の、人々の「青春」に満ち溢れている。
まるで世の中の人がみな裕福かつ幸せであるかのように。
まあ印象論なのでこの比較にさした意味はないが、これについてはまた別の機会に書いてみたい。
ともかくSNSを漁るのが好きだ。
気分が落ち込んでいると尚のこと、よせばいいのにそういった投稿にいちいち欠落を煽られては、また、その渇きを癒すべく親指を下にスワイプする。
海で遭難した人が塩水を飲むようなものだろう。
調子が悪い日は、世界と接続された、しかし数インチの窓を、数畳の部屋の中でじっと見つめている。
別段何か投稿するでもないから、誰かとの関わりをそれで得られるわけでもない。ただ大量の人間の感情を浴びて、社会に参与した気分のかけらを少しだけ味わっている。
「すべてのものは存在するだけで善である」
本当にそうだろうか。
こんなところでさして生産性もないことをしている人間も?
善だ、というほかないのだろう。
ひとにはものを考え、よりよく生きていこうと無駄や余剰を活用し、欲を満たしていくための知性がある。
故に苦しむ。
なまじっか、定性的・定量的に観測できる物事や人の価値や意味や理由を、努力その他の手段によって、ある程度己の手で操作できるから(そして、操作できる幅が大きいほど貴重な立場にいるといえるだろう)。
けれど引きの視点で見れば全部ちっぽけで、大きな海や川の流れの一瞬の波をどのように形作るか、というくらいのものだと思う。
この世界のすべては特に理由もなく流れていく。
そんなのに意味がないと結論を置きたいのではなく、むしろそこから一歩踏み込んで、だからこそ自由で、善なんじゃないか。
この世に生まれてきたものが生まれてきたことに、意味がないと仮定する。
ならば、生まれ、ただ在ることの善し悪しを、どうして判断するというのだ。
実用の面では何の役にも立たないとしても、むしろ他者に「悪い」影響を及ぼしさえしても、その存在が「悪」だと否定されるいわれは、本当はないのだと思う。
歯痒い論にはなるが、人間が日々何かを欲し、求めて考え、生きているために起こる衝突の緩和には善悪を定めざるを得ない。
ゆえに人間の理屈としての悪が作られるのであって、本来的にはすべての存在は悪ではなく、すなわち消極的に「善」なのではないか。
少し話をズラしてさらにウェットな方向に持っていくと、だからある程度諦め混じりにでもお互いに自他を赦すのがいいんだろう。
せめて存在を悪と否定するのではなく、行為をのみ悪として。
まあただ、少なくとも私は人格者でもなければ、赦してばかりいられるほど余裕のある立場でもない。
第一、赦すなんて立場になく、赦されて生きている状況にも目を向けなければならない。
その教授が言っていたことをもうひとつ。
「人間の存在をよいものだ、とするのはとても難しい」
生えかけの親知らずのような疼きが、じくじくと気にかかる。
筆力が足りず、適当に茶を濁すような落としどころになるのがもどかしいところだが、ひとまずこれを結びとしたい。