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緊急事態な日々⑦-おまけの6月

このマガジンでは、まとまりきれてない考えごとの断片をおいていきます。

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歴史に大きく記述されることになるであろうこのたびの緊急事態宣言期間、のちに振り返ってあのとき自分はどんなことを考えていたのかってことを思い出すための備忘録として書き残しておくためのこのシリーズも、ひとまず最終回です。

あいかわらずツイッターの切り貼りっていう手抜きではありますが。

6月です。


白状しなければいけないと思います。

コロナに対する「温度」はかなり下がっていたであろうということを。


感染の当事者やその近親者のみなさん、それに戦々恐々として仕事を続けていた病院や介護施設や乳児院・児童養護施設のみなさん、あるいは仕事を失い不安な毎日を過ごしていたみなさんには怒られてしまいそうなことなんですが。

自分は相変わらず4つの仕事で都内を電車で動き続けていて、どこかでウイルスをもらっているであろうことはもう覚悟していて、だから誰かに、とくにリスクの高い人に感染させないことだけを気を付けて生活する、それ以外にできることはないと、どこか「諦め」モードに入っていたと思われます。

どこか関心すら薄れていたかもしれません。


それは、そういえば緊急事態宣言は5月25日で解除されていたのだということを、「6月」と題して書き始めた今になって気付いたりして、あわてて「おまけ」などと付け足したりしていることにも表れています。


5月中のツイートには宣言の解除について直接的な言及すらなく、かろうじて東浩紀さんのこれをRTしているくらいなのでした。


同じころ反応していたことといえば、アメリカのBlackLivesMatterデモで、
発端となったジョージ・フロイドの死亡事件も5月25日。

いま見ても涙が出ますが。

「暴動」と呼ばれるほど大声を上げなければいけないのも、「もっとマシな方法」を考えなければならないのも、わかりあうためにこんなに必死の対話をしなければならないのも、子どもたちに「俺らみたいになるな」と語らなければならないのも、すべて抑圧された側だということの悲劇性に、打ちのめされてしまうのでした。


そしてこうした問題に対する、指導者の態度について。

沈黙や言い淀みにも誠実さは宿る。

これは自分が人と話す時にも意識することでもあったりします。


でもそういうものは日本の政治家には求められてこなかったのだと思います、たぶん。

国民が政治に何を求めてきたか、おんなじこと言ってるのはよっぽどそのことが気になったのだろうと思います。

見放せば政治は底なしに愚かになるということを、このコロナ禍で私たちは現在進行形で目撃していると思うのです。


しかし政治がオワっていても、在野には希望もあります。

自分の中で今や推しとなりつつある奥田知志牧師。

礼拝での語りの中に現れる関西弁のイエスがなかなかに味わい深くて、「それでええんや」と言われると、「ええんですか、先生…」とまた涙が出そうになるのでした。


しかし繰り返しになりますが、コロナへの言及がありません。

考えごとといえばこんなことだったようで。

これは改めてessayのマガジンの方で書きたいと思います。

いつごろから考え始めたのか、という記録のために貼っておきます。


6月はそんな調子で過ぎていきました。

1年9イニング理論は今でも割と意識されています。

今日はもう8月23日なので6回裏の攻撃中なのですが、あいかわらず攻勢に入っている感じはありません。


いったん総括しなければならないでしょう。

2~3月こそ政治に振り回されつつ温度高く駆けずり回ったようなところもあったけれども、それは通常運転をいかに守るかという水準以上のものにはならず、宣言が明けるころにはだいぶ「冷めて」しまっていたという事実。

追加的な活動を起こすでもなく、分厚い正常性バイアスはかかったまま。

そしてそれは、感染や困難の当事者とそれに近しい人々を除く「世間」の空気の波長とそれほど遠くなかったのではないか、それに抗うことができなかったということではないかという、自戒。

思えば震災のときもそうだったような気がします。


しかし、いつもそうだと言ってみたところでどうなるものでもありません。

いま感染は再拡大の真っ最中、まだ終わったわけでもなし、わが身の置かれた状況と体力と能力との限界の中で、わずかでもできることを探して実行することが、のちにこれを読み返す自分に対しての責任であろうとも思ったりします。

結局自分のことばっかりやという感じもしますが、この恥ずかしい愚かな自分が、わずかでも誰かの何かの役に立つように、1ミリずつでも進んでいきたいと思うものです。

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