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「自分ごと」の深き沼より

このマガジンではまとまりきれてない考えごとの断片を置いていきます。

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友人がとある町のまちづくりに参画しはじめていて。

自分のプロジェクトに関わってほしいという要請があったりして、その人はとても大切な仲間的な存在でもあるので、それはその要請がなくてもそのつもりでいたところでもあるのだけれど。

官民連携の公開プレゼンに参加したようすや事業計画を改めて見せてもらったりすると、学生のころバイトさせてもらってたNPOの、「中間支援組織」とよばれるその団体が実施していた人材育成事業なんかを思い出したりして、アツかったり酸っぱかったりする想い出が蘇る。


思うにその酸っぱさの主成分は「当事者性問題」というやつで。

当時、その団体は中間支援組織であるので、まちづくりから国際協力から病児支援から障害者支援から貧困支援から文化保存から、さまざまな「社会課題」に取り組む人々と接する機会があったのだけど、自分自身がそのどれについても「当事者」でいられなかったことが割と大きな苦悩の種で。

実はもう1つNPOでバイトしていたのだけれど、そこは虐待防止を掲げる子育て支援団体で、生活保護家庭、親が依存症や精神疾患を抱える子育て家庭、子どもに身体や知的の障害のある家庭、外国人家庭、などなど、さまざまな困難を目の当たりにして、以前の記事で言及したヤンキー中学生もここで出会ったのだけど、親身になろうとすればするほど、自分のぬるま湯のような生い立ちが「当事者性の壁」と化して高く立ちはだかるような思いを何度もして。

裕福でもないし特別に恵まれたとは思わないけれど、幸運にも幼少期にさして苦労も経験していない、まして現役子育て中でもない二十歳そこそこの若者にとって、目の前のさまざまな困難を「自分ごと」と呼ぶのはあまりに憚られるというもので。

かろうじて、私は離島の出身であったので、「島おこし」やそれに類する「まちづくり」にはわずかながら「当事者性」を見出すことができたのだけど、「大学卒業後しばらくは東京でいろいろ経験した方がいい」というやさしい大人に唆されてそのつもりでもいたので、島に暮らす「当事者」にもなりきれず。


ことほどさように「自分ごとの沼」にはまっていた若かりし日を過ぎて、今はもう少しバランスよく生きられるようにもなったのだけれど、蘇る「酸っぱさ」はまだ完全には無視できないようであって。

見せてもらった公開プレゼンで講師役を務める専門家がその友人を評して語った「圧倒的当事者」という立場と、その対比として語られた「関係者」という立場では、完全に後者に属する自分。

その町に住んでしまえば自分も当事者か、と一瞬は思ったけれども、「自分ごと」を他人の町に託すようなやり方はとても健康的とは思えない。
それはたぶん依存にも似た状態で。

やはり自分自身も圧倒的当事者としていられる別の「自分ごとの足場」を構えた上で、関係者として最大限の役割を果たすというあり方が健全であろうし、その方が明るい希望も予感させるというもので。


社会学者の上野千鶴子氏は、教え子でもある古市憲寿氏との対談で「あなたをつかんで離さないものが、あなたの問題。ウザい、とかムカつく、とかいう感情を大事にしたらいい。」と語った。
(『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』上野千鶴子・古市憲寿,2011,光文社)

読んだ当時は「沼」がまた深くなったようにも感じたし、今でも油断すると足先くらい持っていかれそうにもなるけれども、当時よりはもう少し軽やかに、「自分ごと」にも、そうとは言い切れないものにも、向き合えるようになったこの数年。
いや、数ヶ月かな。

当事者どうし集まって同じ課題に向かって行動をともにするのももちろん仲間だけれど、それぞれ別の足場をしっかりもって、それぞれの「自分ごと」を互いに関係者として応援しあう、それもまた仲間と呼んでいいんじゃないかと、そんなことを考えていたりすると、あの「酸っぱさ」もなんだか身体にいいもののように思えてきたりして。


#雑感 #当事者性 #自分ごと

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