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オリエンタリズムは関係ない

こないだ、とある人から、その人の子ども時代について話を聴く時間があって。

それは、幼少期からとても過酷な状況を生き抜いてきたといった内容で、あえて具体的には書かないけれども、思春期のころには身体にも異常が現れ、その後もう10年以上もその身体と付き合っていることになるという話。

今その人は具合が低調で病院にもかかっていて、そのことで<現在>の状況についてはここのところ何度か話をする時間をとっていたのだけれど、少なからず影響しているであろう<過去>のことは気になりながらも聴けていなくて、そして僕が気になっているであろうことは当人も気づいていて、だから語りだしたときにまずやってきたのは、(おそらく互いに)じんわりこみ上げるような「やっと」感。

もとい、「いよいよ」感で。


どんな内容が、どんな感情とともに語られるのか、そしてそれに対して自分の中にどんな反応が起こるのか、どんな言葉を返せるのか、「臨戦態勢」といえば言い過ぎだけれど、緊張感といって差し支えないものが自分の中に起こるのを感じたりして。

おそらくその緊張感は、僕自身が思春期も含めた子ども時代に困難な経験をしたことがまったくといっていいほどないような、ぜんぜん裕福ではなかったけれど大変な幸運に恵まれた環境に育ってしまったがゆえのものでもあって、「当事者性問題」は昔ほど悩ましいものではなくなったにせよ、これから語られることにどれだけ想像力を働かすことができるのか、失敗すればせっかく得たかもしれない信頼を失う可能性も大いにあるぞと自分を戒めつつ、その想像力のエンジンを起動するような感覚で。


しかしそんな僕の独り相撲な事情による緊張感は、たいていは相手の話の壮絶さによって打ちのめされて、過去のその人に感情移入してしまって涙さえ滲ませてしまうのが大方の展開であって、このときもそうであったのだけれど、もしかしたらそれは想像力を働かすことが「うまくやれている」ともいえるかもしれない反面、むしろ「やられている」という方が感覚的には近い事態で。

ケアワークとよばれる仕事の専門職のみなさんは、こうした場合に「呑みこまれない」「引き受けすぎない」ための適切な距離のとり方を心得ているのだろうけれども、素人の僕なんかはその手法も身につけられていなくて危うくて、溺れる人を救いたいのに縄も浮き輪も持たずに丸腰で水に飛び込むような、そんな無責任さを呪わしく思うような感情が一瞬あったりもして。


しかし話が続くにつれて、湧いてくるまったく別の種類の感情があって。

それは現在の苦悩と、それに多少なりとつながるのであろう過去のできごとの過酷さとは相反するような、なんとも言い難い、とにかくとてもポジティブな感情で、なんならさっきまで涙を滲ませていたはずの顔に笑みさえ浮かんでいたかもしれなくて。

「初めて人に話した」という言葉を聞いたところから生じてきたその感情。

それはたぶん、ああ、この人はいま初めてその過去を語り直して、捉え直して、現在につなげようとしているのだと、そしてこれからこの先を生きるための自分の物語を、いままさに創り直しているのだと、少なくともその一筆がいまこの瞬間に刻まれつつあるのだという、そのことをとても尊く思うところから来たような気がしていて、だから言うなれば「称賛」や「祝福」が近いのかもしれなくて。


人が生きるのには物語が必要で、そのなかでは過去を語り直すことが重要な位置を占めるという話は、これも専門職のみなさんにはきっと常識的な話であって、これをうまく引き出すための手法があれこれとあるのだという話だとは思うのだけれど、このとき僕の頭に浮かんでいたのは精神分析や心理学の言葉よりも、パレスチナ系アメリカ人として植民地主義について語り続けたエドワード・サイードの言葉であって。

サイードは、自身を「故郷喪失者」と語り、インタビューにおいて「あなたはあなた自身を発明inventしなければならなかったわけですか」と問われて、こう答えます。

その言葉の、ある非常に特殊な意味においてはそうです。ラテン語でinventioとはふたたび見つけるということです。この言葉は、古典修辞学で、過去に起こった出来事をみつけ出し、それらを整理し直し、そこに洗練された文章や目新しさを加えるという一連の工程を表現するのに使われていました。無から作り出すのではなく、再度の秩序化です。その意味では、わたしは自分自身を発明しました。(略)わたしに与えられた役割とは、喪失の物語――本国への帰還、故郷に帰りたいという考えは基本的にはありえないという物語――を語り、そして語り直すことであると理解するに至ったのです。
『現代思想 総特集サイード』2003年11月臨時増刊号

暴力的な力によって支配され喪われたものを、取り戻そうとするのではなく、また全く無きものとするのでもなく、「みつけ出し」「語り直す」ことで「再度の秩序化」を図ること、そしてそれによって新たな「自分自身を発明」すること。

ここで語られているサイードにとっての故郷が、あの人にとっての「子ども時代」と置き換えることが許されるなら、その語り直しは、暴力によって支配されてしまった内面が解放され、自由を手にするための確かな一歩ともいえるような気がしてくるのであって、だから僕の中に湧いた感情も「ねぎらい」や「いたわり」が混じりつつも、それは確かに「祝福」で。


もちろんそんなまわりくどいこと当人には言えないし、まだ何も解決していない状況で「おめでとう」なんて言えるはずもないのだけれど、「とにかく語りだせてよかった」と、そのことだけは伝えておいたのでした。

その人は今日も戦っています。

少し興奮気味ですらあった帰り道に、はて、翻って自分にも語り直すべき物語があるんじゃなかろうかと考えてみたりもしたのだけれど、それはまた別の機会に。


#雑感 #日記

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