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緊急事態な日々⑥-手抜きで腑抜けな5月

このマガジンでは、まとまりきれてない考えごとの断片をおいていきます。

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前回に続いて手抜きで振り返る「あのとき」の「断片」たち。

5月。

法的拘束力やいわゆるロックダウンを伴わない、いわば「ゆるい」緊急事態宣言が出されてから1ヶ月が過ぎていくころでしたが。


こんなツイートから。

5月3日の憲法記念日にこんなタグが流れてました。

起草者たちの日本語に対する誠実さが感じられて、憲法の条文は割と好き。

あの反省の上に立ち、しかし失いたくないものもあるというギリギリの攻防がこの第一条からは感じられて尊くて。


関連して、同じ敗戦国であった、かの国の大統領はこんなスピーチ。

こんなにバランスのとれた「愛国」という言葉、日本ではなかなかお目にかかれません。

同じころ、私たちの国会はといえば。

そもそもこの緊急事態下にこんな問題に時間を割かなければならないことが悲劇的であって。

大統領、首相、ひいては政治家というものに国民が何を求めてきたのか、コロナ禍にあっていっそう痛感することが増えたように思います。

枝野さんもこのごろ心折れかけたと見える「まっとうさ」、その復権への道のりははるか遠いように思えるけれども、1ミリずつでも、自分の半径5mの世界だけでも、進めなければいけないと、なんとか言い聞かせたりしています。

でも基本は絶望しています。


5月15日は沖縄復帰の日。

自分が忘れていたことにも、TLに関連したニュースが流れてこなかったことにも驚きました。

1972年の復帰から48年。

50年の節目の年にはもう少し全国的にも、沖縄の戦後・復帰について注目が集まるといいのだけれど。


この、月の半ばまでコロナに直接的に言及したものが目立たないのが5月の特徴のひとつだったかもしれません。

対策にも新味なく、感染者が劇的に増えるでもなく減るでもなく、静観という雰囲気があったように思います。

ポストコロナやアフターコロナなどと、もう「その後」の話を始めようとする人々も出始めてましたね。


個人的には、人間そんな簡単に大幅に変わるもんじゃないという気持ちの方が強かったりして、こういう記事に食いついていたようです。

でも注意しなければいけないのは、「そんな急激に変わりはしない」ということと、「この状況は大したことじゃない」ということは全然違うということで、そして全然違うことであるのにそれが紙一重のように思えてしまうことだと思うのです。

白状すると、僕もコロナという病気自体に関してはかなりキツめの正常性バイアスがかかっていた/いるように思います。

「正しく恐れる」ということ、それが「言うは易く行うは難し」であることを痛感する日々でもあります。


まあバランスよく考える体力がなくなっているということも事実かもしれません。

まちがいなく疲れてますね。


「あのころの記憶があまりない」ということも大いにありうると思えることも、このシリーズを始めた理由の1つでありました。

季節は進み、続きます。

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