汚してこそ清潔
清潔とは,一般的に身の回りの細菌という細菌を無慈悲に破壊する行動であるといえるだろう。あるいは,行動の阻害要因となりうる物を徹底的に取り除くことか。
いずれにしても,身の回りの事象に対する働きかけである。
しかし,私は「心の清潔」の重要性についてまとめたい。
そもそも心と体はつながっていることは先人の活躍からも明らか(打倒海南大付属の闘志で怪我の痛みを押し殺した赤木剛憲,盟友の死を嘲笑われサイヤ人としての真価を発揮した孫悟空等)である。
心の清潔は,ときに体外の清潔を凌駕すると考えている。
私には,常に清潔に整えられた心の部屋がある。
『大相撲』部屋である。
この『大相撲』部屋がいかにして整えられてきたか。
始まりは,7歳のころだったか。祖母が見ていたから,といったありきたりな理由だった。
やがて祖母が贔屓にしている郷土出身力士(肥後ノ海,浜ノ嶋,智乃花)の一進一退の活躍もあり,間もなくその魅力にのめりこんだ。
朝食時に開く朝刊にも彼らの活躍が載っているし,同級生にも相撲観戦を嗜む友人がいた。そのため,私の相撲愛は無菌状態ですくすくと育った。
風向きが変わってきたのは中学生になってきてからだろうか。部活もあり,帰宅が中継に間に合わない。その上,サッカー,野球人気のさらなる高まりも相まって,身の回りから大相撲という文化の存在感が急速に失われていった。
さらに高校,大学と進学していくと,次第に「え?相撲?ww」と蔑みの対象となってきた。太った裸のちょんまげが抱き合っている,という認識しかないようだった。
他方,総合格闘技が一世を風靡したのもこの時期だったように思う。グレイシー一族に挑む日本人選手の活躍は確かに手に汗を握るものだったし,ヒョードルの圧倒的な強さには戦慄を覚えた。こと総合格闘技に関しては友人との話題に事欠くことはなかった。
他者の無理解,他文化の隆盛という,まさに毒性の強い細菌が私の『大相撲』部屋を襲ったのである。
が,これらの細菌が私をより頑なにした。否定されればされるほど,斜陽の文化となりつつあると感じれば感じるほど(ちょうど不祥事や,日本人横綱不在の時代と重なる時期だった),「俺が愛さなくて誰が愛するというのだ」という,それまで生涯働いたことのなかった慈愛の心が働いた。
こうして世間に背を向ける形で大相撲と駆け落ちした私の心には,軽蔑や無関心といったあらゆる菌を寄せ付けない,清潔そのものの『大相撲』部屋ができた。
これは仕事でヘマをしても,人間関係でトラブルを起こしてしまっても,外の世界と断絶された,いつまでも美しい心の拠り所となっている。
心の拠り所があるというのはとてもいいものである。病は気から,というように,病の原因を緩和してくれるのである。
みなさんも心に決めたものがあるのなら,それを世間に(そう,細菌まみれの)晒してみるといいだろう。それがあなたの人格を形づくる血肉となり,豊かな生活の伴侶となってくれることだろう。
これが私の考える「心の清潔」である。
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