父親の現実を知って生き方を変えた30歳男の話

お父さんの腎臓に白いカゲがあるの……。」

普段、強気の母が弱弱しい声で電話をしてきたのは、つい最近のことだ。


私は子どもの頃から、超がつくほどお父さんっ子だった。

どこに行くにも父と一緒に行動していた。父が友人たちとご飯に行くと聞けば、そこについて行き、仕事で配達に向かう時は車に乗って…と。

物心ついた時から、父が運転する車の助手席は、私の専用席だった。
成長しても、それは変わらず、実家を離れた今でさえ、母は助手席に乗らないらしい。

父からは様々な影響を受けたが、一番大きいのは、「歴史好き」になったことだ。小学校で社会科の授業が始まった頃、父から本をもらった。
それは父が、小学6年生の時に買ってもらった歴史群像の「忠臣蔵」の特集本と、日本海軍の空母の写真集だった。
(なんとマニアックな小学6年生なんだ?)

歴史を習い始めたばかりの子どもに、プレゼントする本ではないのだが、父いわく、「どちらも面白いし、内容を理解したら、もっと面白くなる」からと。
すぐに理解することは出来なかったが、思わぬ影響が出た。

6年間、通うことのなかった学校の図書室に通い始めたのだ。
昼休みになると、図書室へ向かい、学研の偉人伝や『はだしのゲン』を読み漁る日々を過ごした。
円谷英二の伝記は好きすぎて、セリフを一言一句覚えるほどだった。

中学に入ると、父が薦める吹奏楽部ではなく、ルールすら知らなかった卓球部に入部した。いじめられていたわけではないのだが、友達が少なかった私は、休み時間、ずっと地図帳と国語便覧を眺める時間を過ごしていた。
授業が終われば卓球へ打ち込み、部活が終われば父が迎えに来て、その日の報告をしていた。
家に帰ってからは、好きな歴史の本を読み、父と歴史の話をしていた。友達と無理に会話するより、父や母と会話する方が楽しい時間だった。

高校に入学してからも、生活リズムは変わらず、父の送り迎えで高校に通い、休み時間は国語便覧か、買った本を読み、授業が終わると部活へ向かい…家に帰ってからは受験勉強の日々だった。
高校生になると、親から一定の距離を置き……とよく言われるが、我が家はそんなことはなかった。小中生の頃と変わらず、私は親と過ごす時間が長かった。彼女がいたら、話は違ったかもしれないが……。

好きな歴史を生かした仕事が出来たらと探していた頃、父の知り合いに、地元の博物館の学芸員さんがいると知り、早速、会いに行き話を聞いた。
「好きな歴史の知識を生かせる仕事はこれしかない!」と確信した私は、進路を学芸員資格が取れる大学に定めた。
高校の日本史の恩師から、「大学受験の前に、地元の歴史を話せるようにしていた方がいい」とアドバイスを受けた私は、父に頼み、毎週土日は、地元(道南)の歴史を改めて学ぶために、各地へ出かけた。小学生以来、行っていなかった松前城や五稜郭はじめ、道南の古代から近代までを網羅的に学んでいったのだ。父と2人で旅したのは、この時が初めてだった。

大学に入学してからは、夏休みやお正月に帰省した時や、親が札幌に出てきた時などしか会うことは無かったが、連絡は取り合っていた。
専ら話は、私が講義で学んだ歴史の話や、休日に出かけた博物館などの話ばかりであった。
学芸員を目指して学んでいる中で、「図書館司書」を知った私は、どちらかを目指す決意を固め、就職活動に臨んだ。しかし「全国で求人があればいい方…」と言われるほど、狭き門だった。
結果、指定管理者が運営する図書館で働くという道を選んだ。

色々な出来事があったが、その図書館で働いて今年で7年が経つ。
働くようになってからは、生活リズムが変わって、親と連絡する機会も少なくなっていった。
しかし、父からは、夕方よく連絡が来ていた。

大方、LINEで「今、どこ?」と一言。
「家」や「外」と返すと休みと判断され、電話がかかってくる。
付き合いたてのカップルか!という位、中身は特にない電話ばかりだった。



頻繁に電話やLINEをしてきた父から、ピッタリと連絡が来なくなったのは、ここ一ヵ月の話だ。

2年ほど前から、父は、肝臓を悪くしている。
健康診断で肝臓の数値が異常だったことから、大きな病院で診察してもらったところ、肝硬変一歩手前だった。
父は、診察室で「もう一生分、お酒楽しんだでしょ~」とお医者さんに言われたそうだ。
ずっと健康診断で引っかかってこなかった父が、突然、引っかかって、当時私と母は衝撃を受けたのだが……違ったのだ。

(いつからかはわからないが)2年以上前から数値は異常だった。
父は母に怒られることを恐れて、ずっと隠していたのだ。
加えて父は、超が付くほどの病院嫌いだった。
周囲が勧めても、健康診断以外の検査は受けてこなかった。
私が子どもの頃から太っていたが、健康だったのは事実だ。

肝硬変一歩手前と診断された父は、薬を飲みつつ禁酒を行った。
経過観察も順調で、今後の人生で、お酒を飲むことはご法度だが、長生きは保証されたはずだった……。

6月上旬、病院で定期検査を受けた際に、お医者さんから、母は父の「腎臓に白いカゲがある」ことを告げられたのだ。

翌週、さらに検査をしたところ、がんの可能性が高い、と。
ただし早期発見のため、切除したら大事には至らないらしい……。

この話を聞かされたのは、忘れもしない6月19日(水)。
この日は私の推しの作家 太宰治の命日(「桜桃忌」)で、仕事帰りに、サクランボを買って、太宰に思いを馳せながらサクランボを食べようと思っていた矢先だった…。
母からの電話が深刻な声のトーンだったため、「まさか父が…」と思っていたのだ。
母からは、ここ一ヵ月の父の様子と、検査の詳細を聞いた。

思っていた以上に父は弱っていた

仕事が終われば自室にこもって、音楽を聴き、寝る前には読書をしていた父がどちらも一切せず、ひたすら横になって眠っていると……。
また仕事に行っても、早い時では日中に家に戻り眠り、また仕事に向かう日々を過ごしている、と。
母から初めて聞いたのだが、今まで父は私に電話した日、母に「今日、はっちゃんから電話があってね~」と楽しそうに話していたそうだ。
そんな父から、このひと月、母は私の名前を聞いていない、と。
確かに、父からLINEは来ていなかったし、私も連絡する暇がなかったのは事実だ。車に乗ればラジオや好きな音楽をかけていたのに、それも一切無くなってしまったのだ。

電話を切った時、サクランボを食べる気は失せていた。

父は亡くなっていないが、父の死を身近に感じた。

そして死を身近に感じたことで、自分の中で、何かが吹っ切れたのだ。


私は働くようになってからも親に甘える生活をおくっていた。
家賃を払ってもらい続けていたのだ。
同僚に、「少ない給料でよく一人暮らしが出来て、本も買えて、アイドルの推し活もできるよね~」とよく言われていたのだが、家賃を払わなくていい分、浮いたお金を充てていたにすぎない。
30歳になって恥ずかしい限りだが、恥ずかしさを実感したのは、この電話を切った直後だ。

これからもこの援助ありきの生活を続けるわけにはいかない。
このまま続けていれば、この生活に慣れてしまって、援助が無くなった時に対応できない。


今の生き方を変えるしかない。そのチャンスは今だ。

過去を振り返った時に、あの時の決断があったからこそ!と思える生活をしようと胸に刻んだのだ。















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