ラジャ・マハラジャの冒険あとがき

ファンタジーというのは基本は現実逃避だと思っている。しかし現実逃避だからこそ真実を盛り込みたいと思う。真実を盛り込むことでファンタジーは作品となる。
そしてファンタジーは、矛盾があってもナンセンスであってもいい。ヤマトタケルが敵の火攻めに遭った時に、草薙剣で草を切り払って迎え火をつけて対抗するが、火攻めに遭って迎え火をつけたら自分が燃えてしまうだろうと思うだろう。それなのに迎え火で敵の火を防いでしまえるところがファンタジーである。
だからファンタジーは何でもありの世界である。しかしファンタジーに説得力を持たせるには、作り込みが必要である。『指輪物語』もそうだし、メルヴィルの『白鯨』の「鯨学」もファンタジー的なイメージを読者に刷り込むためにある。しかし大抵は作り込みができないので、神話や別の作品から、ファンタジーな世界観を「借用」してファンタジーを作る。
『ラジャ・マハラジャの冒険』もまた、ファンタジーな世界観を「借用」している。「借用」した上でその世界観を壊し、古い、本来の姿に戻っていくことで元の力を取り戻していくという世界観を作りあげた。
世界観が壊れていくから、それをナンセンスな雰囲気で繋いでいく。そこに日本のファンタジーとは違ったものを放り込む隙ができた。そうして誕生したのが日下部成海である。

おとぎ話の世界の中で洋楽を歌い、宮津市出身なのに天の羽衣を知らず、役小角も前鬼も後鬼も知らず、それなのになぜか聖徳太子が一万円札だったことを知っている。そして玉手箱とわかっていながら箱を開ける。
そんなナンセンスな少女、日下部成海こそが『ラジャ・マハラジャの冒険』の構造であり、世界観であり、ナンセンスな世界観の仕掛け人である。成海が洋楽を歌うことに、読者が違和感を持たなかったとしたら大成功である。

この作品のインスピレーションの最初は中学生の時で、授業中に「夢」ともうひとつ、「悪夢」か何か忘れたが、その2つのタイトルのどちらかで書けと言われ、言われた直後に無性に書きたい衝動が生まれ、授業中にひたすらに書き続けた。あまりに熱心に私が書いているので、友人達から見せろと言われ、書いたものを見せて回った。それが第一話の、耶摩が出てくる前までである。
結局授業中に書き終えることができず、家で何度か書き直してみたが、当時の私にはいじめに対する反発と、臆病な自分でもなんとか認められたいという程度の思いしかなかったためにうまくいかず、途中でやめてしまった。
そして震災のあった2011年に、それまでの社会や日本のファンタジーに対する考えや、当時最盛期だった古代史ブームの熱が合わさって、小説を書きたい衝動が生まれ、記憶の中からラジャ・マハラジャを引っ張り出し、六重人格というキャラ付けをしたところ、インスピレーションが降りた。洋楽を歌う、天然なのか性格が悪いのかわからない少女、日下部成海もこのインスピレーションによる。
ギャグは2000年代のツッコミ中心のギャグにしようと思っていた。2000年代を頂点に、ツッコミ中心のギャグは衰退していると思っているが、2000年代のギャグにすることには強いこだわりがあった。そうでないと成海のキャラが生きてこないのである。この小説は日下部成海の圧倒的な存在感により成立しているのだから。
書いてみて、2000年代のギャグになっているかどうかは疑問だったが、2000年代のギャグに拘った理由は書いてわかった。この会話がナンセンスな雰囲気を醸し出していたのである。
そして、おかげでこれ以上ないくらい、かわいい女の子が書けた。日下部成海のモデルは、知らない人の方が多いだろうが、小池田マヤの『バーバーハーバー』の高橋智子という少女である。美少女で周りにチヤホヤされていて、男関係も多くて性格が悪く、弟にはDV。でも初恋は近所の床屋のマスターで、最後までマスターに告白できずに終わる。この高橋智子がヒロインより好きだった(ヒロインは別にいる)。成海のセリフには小池田の他の作品からオマージュしたものもある。
こうして作り出した、日本のファンタジーを下敷きにした世界観はもはや私の世界観であり、この上に何でも乗せることができる。
色々な事情で今まで書かなかったが、書いてみると頭の中がプロットでパンパンで、ほとんど止まらずに書けた。
こんなことを言っても、私には小説家の才能は少ないようで、2011年に得たいくつかのネタ以外にインスピレーションが降りてこない。次回作ですら書けるかどうか疑わしいのだが、それでも書く約束はしよう。

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