一領具足⑰

そんな中で、鶴賀城の利光宗魚が討死したとの報が入った。

天正14(1586年)年12月6日、島津勢は鶴賀城を攻めた。

三の丸、二の丸が落ちたが、島津勢は本丸を落とすことができなかった。

島津勢はやむなく撤退し、翌7日、宗魚はその様子が物見櫓から見ていた、

そこを、宗魚は矢で射抜かれたという。

鶴賀城では、宗魚の死を伏せて継戦中であるという。

死者は、このことを口頭でなく、書状をもって大友義統に伝えた。

府内城では、早速軍議が開かれることになった。

「なんということ!」

開口一番、権兵衛が吠えた。「鶴賀城が落ちれば、府内城は義弘の軍と家久の軍とで挟み打ちになる!」

権兵衛の言う通りだった。

「一体殿下は何をしておるのじゃ!なぜ援軍を送ってこぬ!」

権兵衛が騒いだ。

軍議に、長宗我部弥三郎信親も出席していた。

信親、この時22歳。

元親も小男ではないが、信親は大きい。

身長が6尺2寸(184cm)ある。

文武に優れながらも礼儀正しく、家来にも優しかった。かといって臆病ではなく、戦場では比類ない働きをする。

元親の自慢の息子だった。

「樊噲にも劣るまい」

と、元親は常々言っていた。

樊噲とは漢の高祖劉邦に仕えた功臣で、剛勇の士である。弥三郎信親も、その長躯と剛力を活かして、戦場では4尺3寸(126cm)の大太刀を振るった。

信親は、静かに端座している。

「早急に対処せねばならぬ!鶴賀城を救わねば我らに後がない」

「お言葉御尤も」

元親が言った。ここは権兵衛の感情を逆なでしてはならないと思った。「しかし島津は20000、我らの手勢で鶴賀城を救うには兵力が足らぬでござる」

「そんなことを言っている間に城が落ちて、我らは敵に囲まれるわ」

権兵衛は吐き捨てるように言った。元親はぐっと込み上げるものがあったが、堪えた。

「左様、敵は20000、我々では太刀打ちできぬ。しかし敵は手一杯でござる」

「はっ!なぜ敵が手一杯だと言い切れるのか」

と、今度は十河存保が元親は反論した。

「この九州は全て合わせれば石高はいくらか。恐らく300万石もござるまい」

元親は言った。

元親にはわかるのである。つい1年前に、元親も羽柴軍相手に全兵力を投入して戦ったのだから、島津軍が国元の兵を留守の者まで徴発しているというのは、元親には容易に想像できることだった。

「島津はその7割を制している。とすればその石高は200万石あるかないか」

太閤検地前の概算にすぎないが、概ね当たっている。1万石につき250人の動員が可能なので、200万石なら50000人が動員できる。しかし戦争では基本、半分は国に残ることになる。

「家久軍が20000で、義弘軍も同程度、そして総大将の義久の後詰めの軍を合わせれば約60000。これで薩摩・大隅では来年、田植えをする者もござるまい。島津は関白殿下の本軍が来る前に九州を制覇するのが目的でござるが、来年以降はろくに戦えぬ。そこに関白殿下が大軍を率いて九州に押し寄せれば、当方の勝ちは必定でござる」

「だからそれまで持たぬと申しておるのだ」

権兵衛が言った。「それともこの窮地で勝つ方法があると申されるか」

「上の原の城ができておりますれば」

と言ったのは信親だった。

「言っても詮無いことよ」権兵衛はそっぽを向いた。

「ならば貴殿の兵はどうか、日毎に遊女に酒に博打ではござらぬか」

「なんじゃとーー」

「やめよ、弥三郎」

元親が制した。「されば、この戸次川にて敵を塞ぎ、島津の鶴賀城への攻撃を鈍らせ、機を見て一戦して勝ちを収めれば、家久の来襲を遅らせることができましょう」

「ぬるい!川を渡って一戦し、島津を退けるべし」権兵衛は叫んだ。

「なんとーー」

元親は絶句した。正気の沙汰ではない。

「おう!それが良い!」十河存保も賛成した。

「お待ちあれ、こちらは多勢に無勢、川を渡るのは危険でござる」

「鶴賀城を救うのが先決でござる!」

「もし城が落ちても、この府内城を守りきれば当方の勝ちにござる」

「宮内少輔殿(元親の官名)、臆病風に吹かれたか」

「なんとーー」

「父上、戦いましょう」信親が言った。

「待て弥三郎、早まるな」

元親は止めたが、

「息子に似合わず、父親の不甲斐ないことよ」

十河存保が笑った。

「臆病風に吹かれたなら、宮内少輔殿は城で留守をされるがよろしかろう」権兵衛が言った。

(この者達は、上の原の築城を怠ったことを気にしているのだ)

元親は思った。築城の手抜きが今回の窮地を招き、イチかバチかの手に出ることで失態の挽回を図ろうとしている。

「それでは、城を打って出るということで」

と、大友義統が締めくくった。

結局、元親も城を出て戦うことになった。

大友義統は、城の留守を預かることにした。


12月12日、元親、権兵衛、存保の三将は、戸次川に布陣した。

島津側は、鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に陣を敷いた。

「見たか!敵は引いたぞ!それっ!」

元親達豊臣勢は、権兵衛は号令で川を渡った。

権兵衛の軍が川を半ば渡ったところで、横合いから島津の伏兵が鉄砲を撃ちかけた。

仙石勢が泡を食ったところで、島津軍が大挙して押し寄せた。

権兵衛ら仙石勢は敗走した。

十河存保は引かなかった。十河勢は島津軍に囲まれ、存保は奮闘したが首を取られた。

長宗我部勢は、伏兵を予測した元親の指示により、川を渡っていなかった。

元親の長宗我部勢3000。

島津勢は、川を渡って押し寄せてきた。

戦国時代、強兵と言われたのは甲斐の武田兵、越後の上杉兵で、徳川家康の三河兵がそれに次ぐと言われた。

しかしこれらの兵の評価は、日本中央の争いに参加した者達の評価で、土佐や薩摩のような僻地は評価に入っていない。しかし土佐兵と薩摩兵の強さは、甲斐兵や越後兵の強さに匹敵しただろう。

長宗我部勢と島津勢は激しくもみ合うように戦った。

長宗我部勢は健闘したが、敵の方が圧倒的に数が多い。

乱戦になり、隊列もなくなって、各自個別に戦うようになった。

(弥三郎!)

信親の姿が見えなくなった。元親の隊と信親の隊は分断されて、徐々に引き離されていった。

「かかれ!弥三郎と引き離されるな!」

元親は兵を叱咤したが、島津の勢いに呑まれていくのをどうすることもできなかった。

元親は撤退した。

島津勢は追いすがってきた。長宗我部の将士は、次々に島津勢によって討たれていった。

元親は海岸まで逃げ、そこで小舟を見つけ、わずかな供と海に漕ぎ出した。

舟で豊予海峡を抜け、伊予国の日振島についた。

元親は、信親の気がかりで仕方がなかった。

元親は今まで、「姫若子」と呼ばれた弱い自分を叱咤して、四国に覇業を成し遂げた。

そういう自分に生まれ落ちたことをしばしば恨みもしたが、信親が生まれ、育つにつれて、自分がこのように生まれたのは、信親に自分が築いたものを残すためだと思うようになった。

元親がそう思うほど、信親は勇猛でありながら思慮を欠くことなく、また勇猛さが一面として抱える残虐さを持つこともなく、信親は誰に対しても優しかった。

元親にとって信親は、息子であると同時に神の化身であり、未来だった。親バカといえばそれまでだが、信親に後を託せることで、元親はそれまでの全ての苦労が報われると思うようになった。

「忠兵衛はおるか」

と、日振島に着いた元親は、谷忠澄を呼んだ。

「はっ、御前に」

と忠澄は元親の前で、砂浜に跪いた。

「おお。忠兵衛おったか」

元親は、同じ舟に乗ってきたのに、初めて忠澄に気づいたように言った。

既に、辺りは暗くなっていた。

「忠兵衛、弥三郎を探してこよ」

と、元親は言った。忠澄に戦場に戻れというのである。

忠澄にしばらく考えた。半日いくさをした後である。これから戻れば、豊後に着く頃には朝になるであろう。しかし、

「それでは早速に」

と、忠澄は答えた。元親の気持ちを思えば、行かない訳にはいかなかった。

忠澄は再び小舟に乗り、西に向かった。

元親は、待った。

2日後、忠澄が戻ってきた。忠澄は薩摩の武士を連れてきた。その者は島津家中の鈴木大膳の家臣と名乗った。

「さる12月12日、長宗我部弥三郎殿は、我が主鈴木大膳により討たれましてごさりまする」

と、その者が言った。

元親は、黙って聞いていた。

その者が語るところでは、信親は700の手勢で、引くことなく島津勢と渡り合ったという。

信親は例の4尺3寸の大太刀を振るって8人を斬り伏せ、敵が近づいてくると、その大太刀を捨てて、太刀で6人を斬り伏せた、ということだった。

「見事なご最後であられました」

その者が言ったが、元親は表情を動かさなかった。

精神が強い衝撃を受けた時、人は感情を鈍くすることで、その衝撃を和らげることがある。今の元親がそれだった。

元親は、信親が死んだということを理解していなかった。

やがて、九州の詳報が伝わってきた。

仙石権兵衛は小倉城に敗走した後、さらに20名の家臣を連れて讃岐の自領まで逃げた。

鶴賀城は戸次川の敗報を聞いて降伏、大友義統は府内城を放棄した。

元親が日振島にいると聞いて、長宗我部の敗兵は、少しずつ舟で、元親の元に集まってきた。

信親と遺体が届けられた。

変わり果てた息子の姿を見て、元親は信親が死んだことを自覚せざるをえなかった。

元親は涙にむせび、元親の将卒もまた涙に暮れた。


しかし、島津の進撃もここまでだった。

12月1日に、秀吉は小西隆佐達4人の奉行に、30万人分の兵粮米と馬2万匹分の飼料を1年分用意するように命じた。

そして翌天正15年(1587年)正月に、諸大名に九州征伐の軍令を下し。20万人の兵力を動員した。

これだけの大軍を、しかも真冬に動員した例というのはない。

「やせ城どもの事は風に木の葉の散る如くなすべき候」

と、秀吉は黒田官兵衛に書状を送っている。

まさに「やせ城」だった。

「いくさでは1日5合飯を食う」

というのは織田家の軍法だが、1合というのは、老若男女平均しての人間の1日の食事の量である。それがいくさでは5合食う。

丸一年戦い続けた島津勢は、もう兵糧の備蓄がなく、しかも疲れきっていた。

2月10日には秀吉の弟の秀長が、3月1日には秀吉が出陣した。

島津勢は、秀吉の本軍が動いたと聞いて、九州の半ばを放棄して秀吉の侵攻に備えた。

その島津軍を、豊臣軍は大軍でもって押し流し、5月には島津義久が降伏するという電撃的な勝利で終わった。


仙石権兵衛は讃岐国を召し上げられた。

「全て自分の責任である」

と、秀吉は信親の死を悼み、涙を流した。

そして元親に、大隅一国を与えると言った。

嫡子を失ったとはいえ、破格の処遇である。いかに秀吉が、元親の才能を自分のために役立てたかったかがわかるだろう。

しかし元親は、この恩賞を辞退した。


元親は、なぜ辞退したのだろう?

いかに国ひとつとはいえ、愛息子の死を思い出させる恩賞は欲しくなかったのか?

それは充分な答えではないだろう。

この時代、武士の土地に対する執着は相当強い。

秀吉は小早川隆景を自分のために働かせるため、毛利の家臣から独立の大名にしようとしたが、隆景は毛利の家臣であることを望み、しばしば加増を辞退した。

しかし元親は元々独立の大名であり、隆景のような心配もない。

元親は、自分がそれを得る資格がないと思ったのである。

元親は、若い頃から信長をなんとか超えようと足掻き、ついに超えることができず、信長の後継者の秀吉を超えようとしてもやはりできずに四国を奪われた。

超えようと足掻き、ついに超えられなかったそれは日本を統一し、検地という大改革を実施している。その巨大な力は、元親にとって絶対の存在になった。

豊臣政権は、秀吉の関白就任によって律令制度への回帰という性格を持っていたため、必然的に中央集権志向だった。

そのため最初は、秀吉の寛容さに惹かれていた大名達も、豊臣政権末期には密かに家康を押し立てるようになっていた。

しかし元親は、この点真面目すぎた。

日本をみるみる中央集権国家に仕上げていく、そんな豊臣政権というものに心を奪われていた元親は、密かに豊臣政権を見限って、家康を押し立てる人の心の不真面目さがわからなかった。そのため、家康につくべきかどうかという方向性を示さずに死んだ。


元親の心は、何か永遠に手に入らないものを求めるようになり、それは家督相続でも同様だった。

信親の死後、後継者としては次男の香川親和や、三男の津野親忠が有力だと思われた。二人とも元親の四国統一のために他家に養子に行き、特に香川親和は、讃岐勢を率いて四国統一に大いに功があった。

しかし、その四国統一自体が水泡に帰したのである。元親は、失った四国に代わるものを後継者に求めていた。すなわちそれは信親だった。

「弥三郎が生きておれば、違った」

と、元親はよく零した。確かに信親は、良き殿様になっていただろう。

しかし世の中には、誰がやっても大きな差が出ないことがあって、それは泰平期の大名の仕事もそうであったりする。

四国を失った分、養子に出した息子達に失望しただけなのだが、元親は信親の影を追い求めていた。ついに、

「四男の盛親を跡取りとする」

と、元親は言った。

(盛親は弥三郎に瓜二つじゃ)

と元親は思った。実際は盛親は粗暴で、信親に似ていなかったが、元親の目には、信親と盛親は非論理的に繋がっていた。

さらにあろうことか、元親は盛親に、信親の娘を娶せた。叔父と姪の、しかも同族の結婚である。これで盛親は、世子の信親の婿養子になったことになる。

これでは、何のために四国統一に精を出したのかわからない。盛親の家督相続は、長宗我部一門からの反発が強かった。

元親は反対する一門衆を切腹させた。

元親は片意地になり、人の意見を聞かなくなった。そうなると、長宗我部家のために意見をしてくれる者もいなくなる。

元親はますます時勢に疎く、その分秀吉に忠であろうとした。

天正16年、元親は本拠を岡豊から大高坂城(高知城)に移転した。

しかし大高坂は多くが湿地で、よく洪水が起こった。その上大高坂は多くが家臣の土地で、城も城下町も狭かった。

日本の歴史ではこういうことがよくあり、大坂のような首都機能として優れた地が、わずかな期間しか首都にならなかった理由も土地買収問題にあり、同じような問題は、公共事業で用地買収によく失敗する現代にも通じている。

四国を失った元親には、大高坂に代わる土地を家臣に与える余裕がなかった。

天正19年(1591年)、元親は浦戸湾に迷い込んだ長さ9尋もある鯨を、数十隻の船で大阪湾に引っ張っていった。

秀吉も大坂の町人も、その大きさに驚いた。

「土佐侍従(元親の官名)、でかした」

と、秀吉は元親を多いに褒めた。

同年、元親は大高坂城から浦戸城に本拠を移した。

大高坂の治水工事はやれぬことはなかったが、時間と金がかかる。

それならば、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすから、水軍基地の浦戸を整備して、秀吉の役に立とうと思ったのである。

内政の面では問題のある判断である。しかし元親は、九州征伐で仙石権兵衛や十河存保の分まで上の原の築城を引き受けていれば、信親を死なせることはなかったという思いが抜けなかったーー。


慶長4年(1599年)、元親は伏見屋敷で死んだ。享年61。

後を継いだ盛親は関ケ原で西軍について改易となり、大坂夏の陣で散り、長宗我部家は断絶した。

                 (終)

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