檀林皇后⑥

天長10年(833年)2月、淳和天皇は譲位し、正良親王が即位して仁明天皇となった。

それに伴い、嘉智子は太皇太后となり、嵯峨上皇と共に、冷然院を引き払って嵯峨院に移り住んだ。

嵯峨上皇が洛北の嵯峨の地で晩年を過ごしたため、上皇は「嵯峨」と諡されることになる。

嵯峨院には、中国の洞庭湖を模したという大沢池と名古曽の滝があった。大沢池は現存する最古の人口庭池である。

池の北岸には、天神島、庭湖石、菊の島と二島一石が並んでいる。

天神島は造園当時は陸続きで、池の北岸から池に突き出ていたらしい。

庭湖石は画家として有名な巨勢金岡が立てたと言われている。

菊の島は嵯峨上皇が菊の栽培を行った島と言われている。

菊の花といえば、嵯峨上皇の子の仁明天皇は菊の花を好み、元号の承和に因んで、菊の花の黄色を承和色と言った。

嵯峨上皇は、仁明天皇が好んだから菊の花を栽培したのだろうか?

嵯峨上皇の性格からして、元々嵯峨上皇が菊の花が好きで、仁明天皇が嵯峨上皇の影響を受けて菊の花が好きになったと考えるのが自然な気がするが、あるいは嵯峨上皇も齢の重ねることで、息子の好きな花を栽培するような優しさを持ったのかもしれない。

嵯峨上皇はこの菊の島の菊を自ら手折り、殿上の花瓶に指し、『後世、花を生くる者は宜しく之をもって範とすべし」と言ったと言い、これが嵯峨御流という華道の発祥であるという。文化人である嵯峨上皇らしい挿話である。

名古曽の滝は今はない。

「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」

という、藤原公任の歌が小倉百人一首の55番にあるから、10世紀か11世紀には名古曽の滝はなくなっていたのだろう。

離宮内には、空海が五大明王を安置する持仏堂の五覚院が立ててあった。

嵯峨院は、後に大覚寺という寺になる。その経緯も、おいおい語っていくことになるだろう。


要するに、贅沢な離宮なのである。嵯峨上皇は、国家財政が破綻しかけていても、贅沢はやめられなかった。

冷然院を引き払ったなら、上皇になった淳和天皇が冷然院に入ったのかと思えば、淳和上皇は西院とも呼ばれる、淳和院に住んでいた。冷然院には時々嘉智子が戻っていたようだから、嵯峨上皇も一緒に戻っていたのかもしれない。

もっともひょっとしたら、嘉智子は一人で冷然院に帰って、嵯峨上皇とは時々別居していたのかもしれない。もはや孫がいる歳であり、夫婦の熱情もない中で、嘉智子は時々自由を満喫し、嵯峨上皇もそれを許していたのかもしれない。

いずれにせよ、嵯峨上皇は一生、嘉智子を人生の伴侶として大事にした。数多くの女性と子を成した嵯峨上皇は、歳をとって嘉智子の容色が衰えても、嘉智子への愛情を持ち続けたのだろう。

いや、あるいは良房と結びついた嘉智子の権勢に配慮したのかもしれない。

しかし嵯峨上皇は、そういう後ろ暗い配慮をおくびにも見せない人物だった。思えば女性関係においては放縦そのものだった嵯峨上皇が子供を次々に臣籍降下させたのは、嘉智子以外の女性に権力を持たせないためだったのかもしれない。嵯峨上皇の女性への温かみは、女性に対しては嘉智子に限定されていた。

ともかく、嵯峨上皇は限られた範囲では、実に温かみのある人物だった。

そのことを示すのが、常世親王の嫡子正道王を仁明天皇が養子にしたことである。

既に正道王は、淳和上皇の養子になっていたのを、新たに仁明天皇が養父となったのである。こういう温かい配慮は、嵯峨上皇のものか、仁明天皇が嵯峨上皇の影響によってそのようにしたのかもしれない。

そして、淳和上皇の皇子で、嵯峨上皇と嘉智子の外孫の恒貞親王は皇太子になった。嵯峨上皇は賭けに勝ったのである。


嵯峨上皇は、実子の仁明天皇に対しては、盛んに国政への関与を行った。

その例が、小野篁の流罪を決定したことである。

承和元年(834年)、篁は遣唐副使に任ぜられるが、2回渡航に失政し、3回目に遣唐大使の藤原常嗣の第1船が漏水してしまい、篁の乗る第2船に常嗣が乗船することになった。

篁は「己の利得のために他人に損害を押し付けるようなことが許されるなら、面目なくて部下を率いることができない」と言って乗船を拒否した。

そして篁は「西道謡」という、遣唐使を風刺する詩を読んだが、それが忌むべき表現を多く含んだ内容であったため、嵯峨上皇が怒って隠岐国に流罪にした。

配流の時に篁が詠んだ「謫行吟」という詩は、漢詩に通じた者で吟唱しない者はないというほど優れた詩であるという。

篁は承和7年(840年)に赦免されて帰京し、承和8年(841年)には、文才に優れていることを理由に位階を元に戻されている。嵯峨上皇は、よほど篁の文才を惜しんだのだろう。

文才といえば、篁と嵯峨上皇にはいくつものエピソードがある。

篁は小野岑守の子だが、岑守が陸奥守に任じられた時に篁も同行し、弓馬をよくした。しかし帰京後も学問に取り組まなかったことから、当時天皇だった嵯峨上皇は、「岑守の子なのになぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆いた。篁は恥じて勉学に励んだという。

また『宇治拾遺物語』に、こういう話がある。

ある時、嵯峨天皇は「無悪善」と書かれた落書きを見つけて、篁にこの落書きを読むように言ったが、篁は応じようとしない。

さらに嵯峨天皇が強要すると、篁は「悪さが(嵯峨)無くば善けん」と読んだ。つまり「嵯峨天皇がいなければいいのに」ということである。

それで嵯峨天皇は、この落書きは篁が書いたと思い問い詰めたところ、「私が書かなくてもどんな文章でも読めます」と言った。

「では『子子子子子子子子子子子子』を読んでみよ」と嵯峨天皇が言うと、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いたため、嵯峨天皇はそれ以上問い詰めることができなかったという。

また篁は「令義解」という、律令の解説書の編纂にも関わっており、明法家(法律家)としても優れていた。『今昔物語集』にも、篁は昼は朝廷で官吏をし、夜は閻魔大王の補佐をしていたという伝説が語られている。

「三筆」といえば橘逸勢、空海、嵯峨天皇の三人だが、篁もまた書道の大家で、「三筆」に並ぶほどの名人だった。書道においては、空海も両手、両足、口で書が書けて「五筆和尚」と呼ばれたとか、「弘法も筆の誤り」の元となった、点を忘れた揮毫を筆を投げて点を入れた伝説などがある。

嵯峨上皇は、いわばこういう、宮廷サロンの文人達の中心にいる人物だった。


しかし嘉智子は、相変わらず嵯峨上皇のような、人格的な丸みを齢をとっても持たなかったようである。もっとも嵯峨上皇は、そういう角の取れない嘉智子に魅力を感じ続けていたのだろう。

嘉智子は、贅沢な大沢池を見て何を思っただろう。

自分は恵まれている、と思っただろうか。何しろ百姓が重税にあえいでいる中で、自分はこんな豪勢な暮らしをしているのである。

承和2年(835年)、空海は高野山で入定した。高野山においては、空海は今も生きているという。嘉智子もその話を聞いただろう。

空海は現世利益の追求が即身成仏につながると説いた。しかし嘉智子は、暮らしが贅沢になるほど不安は消えなかっただろう。

嘉智子が生んだ皇子が天皇になり、外孫が皇太子になっても、自分の血筋でない者に皇位が移るのではないかという思いは、その可能性が小さくなるほどにに嘉智子の中で大きくなっているようであった。

「両統迭立は、過去に例がありません。嵯峨院(嵯峨上皇)のお考えはうまくいきませぬ」

と、藤原良房は言ったかもしれない。良房は嵯峨上皇の、皇族の絆を深めて天皇親政を行おうとしているのを読んでおり、嘉智子を動かしてその企図を阻もうと画策していた。

確かに、この時までの皇室では、兄弟が相次いで即位する例はあっても、ふたつの系統から交互に天皇になるということはなかった。両統迭立はこの後の鎌倉時代になってからである。

両統迭立の条件としては、調停者を必要とする。

鎌倉時代の両統迭立は鎌倉幕府が調停者となった。しかし両統のひとつ大覚寺統から後醍醐天皇が出て、鎌倉幕府を倒し南北朝時代となった。

嘉智子の時代の両統迭立の調停者は、嵯峨上皇である。

しかし嵯峨上皇は、個人であるだけに寿命という問題があり、調停者として不完全だった。

嵯峨上皇の両統迭立の思想の後継者としては、淳和上皇か仁明天皇が継ぐべきだが、両者とも、その力量が不足していた。特に仁明天皇は体が弱く、そのため薬の調薬については医師並の知識の持っているというほどだった。

嘉智子も良房の言う通りだと思った。

というより、嘉智子は不純物を受け付けられない性質だった。嘉智子から見れば同じ孫なのに、淳和系である恒貞親王が時に憎くなり、その分不純物の混ざっていない道康親王が可愛く思えたのだろう。


淳和上皇も、後ろ盾のない恒貞親王のことを心配していた。

淳和上皇には、上皇に忠実な臣下がいた。藤原吉野という。

淳和上皇と同年代であり、一説には淳和上皇の乳兄弟であるという。それでなくても、藤原式家出身の娘を母に持つ淳和上皇と、式家出身の吉野は親しかった。

仁明天皇の即位に前後して、吉野は中納言に叙任されていたが、もっぱら淳和上皇の側に付き従い、ほとんど朝廷に出仕しなかった。    

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