後白河法皇⑪

僧兵による強訴は、摂関政治の頃には少なく、院政に入ってから急増する。
今回は、その強訴のひとつである嘉応の強訴を見てみよう。

この頃の後白河法皇の寵臣は権中納言藤原成親で、成親は尾張国の知行国主だった。
院政期から始まる知行国制は、その国の国司を朝廷に推薦(実質的な任命)をする権利を各氏族に与えたものである。
成親は弟の家教を尾張守にし、家教は右衛門尉政友を目代にした。
しかし、尾張の隣の美濃の安八郡には延暦寺の荘園の平野荘があった。
政友はこの平野荘の神人を侮る行為をしたらしい。
嘉応元年12月17日、延暦寺所司と日吉社所司(日吉大社の山王権現は延暦寺の守護神)が成親の遠流と政友の禁獄を訴えた。
朝廷は要求を拒否し、使者を追い返した。
それを受けて、延暦寺の僧達は22日に山を降り、京極寺に集結した。
強訴の構えである。
強訴は、白河法皇が「ままならぬもの、鴨川の水、双六の賽、山法師」と言ったように、朝廷が泣き寝入りするしかないものだった。
しかし後白河法皇は、強訴を断固はね除けるつもりだった。
既に信西が、保元新制により、寺社勢力に対しても統率を執る方針を示している。今回の強訴は、朝廷の寺社勢力への優位を維持できるかどうかの試金石となるだろう。
後白河法皇は、武士達に命じて法住寺殿を守らせた。
平重盛が200騎、平宗盛が130騎、平頼盛が150騎を率いて御所を警護し、「その数、雲霞の如し」という厳重な態勢だった。

ところが、僧兵達の行動は予想に反した。
僧兵達は法住寺殿に行かずに、神輿八基を担いで内裏に向かったのである。
内裏にいたのは幼帝の高倉天皇である。それに今ではお飾りの摂政の松殿基房。
院御所と違い、内裏を警護する兵は少ない。
お飾りの摂政はともかく、幼い高倉天皇は荒法師共に怯えるだろう。
僧兵達は建礼門と建春門に神輿を据えた。門に神輿を据えると、門を通れなくなって政務が停止する。
後白河法皇は蔵人頭平信範を派遣し、「内裏に集まって幼主を驚かせ奉るのは不当であり、院御所に来れば話を聞く」と伝えたが、僧兵達は、
「幼主であっても内裏に参って天皇に訴え、勅定を承るのが恒例である」と返答し、内裏を動かない。
院御所では、内裏の僧兵を追い払うか要求を飲むか、協議が行われた。
内大臣源雅通は、「武士を派遣すれば、神輿が破壊される恐れがある」と、武士の派遣に難色を示した。
後白河法皇は、武士を派遣して追い払おうとして、重盛に内裏に向かうように命じたが、重盛は、
「明朝発向致す」
と言うのみで、一向に軍を動かさない。
後白河法皇が再三命令しても、重盛は動かなかった。
(仕方がない)
後白河法皇は、政友の解官、禁獄のみを認め譲歩しようとした。あくまで成親の遠流は回避するつもりである。
しかし僧兵達は、成親を遠流にせよと言って譲らない。
内裏には、高倉天皇と松殿基房の他に重要人物がいた。
天台座主で、僧綱(僧侶を管理する僧官の役職)も務める明雲である。
僧としても、延暦寺の中においても、明雲は比叡山の僧兵の上位にある。
明雲はこの後後白河法皇の受戒僧となり、さらに高倉天皇の護持僧として内裏に近侍していた。
この明雲他数名の高僧が僧兵達を説得しようとしたが、僧兵達は明雲らを追い返してしまった。
ここにきて、後白河法皇はやむなく僧兵達の要求を認め、成親の解官と備中国への配流、政友の禁獄を認めた。
前関白忠通の六男で、後に摂政、関白となる九条兼実は、一切要求を認めないとしながら要求を呑むのは「朝政に似ぬ」と、日記の『玉葉』で厳しく批判している。

ところがである。
後白河法皇の裁定に僧兵達が満足して帰ると、後白河法皇は裁定を覆したのである。
まず後白河法皇は、27日に「大衆(僧兵達のこと)を制止せず肩入れした」として、明雲を高倉天皇の護持僧から外した。
そして28日には成親を召還し、さらに強訴事件に蔵人頭として事にあたっていた平信範と、検非違使別当の平時忠(共に桓武平氏高棟流、公家平氏)を「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」として解官、時忠を出雲国、信範を備後国に配流に処した。
「奏事不実」と言っても、どの奏上が事実と違っていたのかわからない。九条兼実は「天魔の所為なり」と唖然としている。
30日には成親は権中納言に再任され、翌年正月5日には時忠の後任として検非違使別当になる。これも兼実は「世以て耳目を驚かす。未曾有なり」と『玉葉』に記している。

ここからは、清盛は隠居所の福原の雪見御所で事態を静観していた。
清盛は13日に頼盛、14日に重盛を呼び寄せて状況を報告させると、17日に上洛した。
同日、成親は検非違使別当の辞任を申し出た。
21日には清盛の六波羅館に「幾多なるを知らず」兵が集結した。
以前に述べたように、清盛の妻は時忠の妹の時子である。この点清盛の桓武平氏高望流と高棟流は同族に等しかった。清盛は後白河法皇に無言の圧力をかけたのである。
22日に法住寺殿で成親配流、時忠、信範の召還について議論が交わされたが、結論は出なかった。
27日には、僧綱が成親の処分を訴えた。
後白河法皇は、「要求は認めるが、自今以後台山(比叡山のこと。天台宗の宗祖最澄は中国の天台山国清寺で受戒した)の訴訟、一切沙汰あるべからず」と厳しく言い渡した。
これには僧綱も言い返す言葉がなかった。
2月1日には比叡山に成親配流、時忠、信範召還の内意が伝えられたが、4日には権中納言の藤原邦綱が兼実邸を訪れ、
「成親配流の宣下は未だなく、また変わるのではないか」と語っている。
6日にようやく成親解官、時忠、信範召還の宣下があった。しかし成親配流の件は沙汰止みになった。
成親は4月には権中納言、右兵衛督、検非違使別当に復帰している。
ほとぼりを覚ますにも早すぎる。周囲もものを言う気力がなくなったのだろう。
一方時忠は12月まで官位が復していない。信範も同様である。

これが院政の真実である。
強訴は摂関政治の時代にも行われたが、仮にも相手は朝廷であり、国家である。延暦寺は鎮護国家の寺であり、だからこそ頻繁に強訴したが、それでも強訴は鎮護国家の寺としての自らの否定につながり、やるにも限度があった。
摂関政治は表向き律令制だが、内実はその解体作業が進められており、それだから強訴なども行ったのだが、院政期は上皇、法皇が院庁で近臣によって政務が行われる。
上皇、法皇とは言わば隠居で、日本ではこういう隠居者が政治を行う例が多いのだが、隠居の良さは家臣の意向に振り回されることが少ないことである。
欠点は、人事が隠居の独断で決められることが多いことである。
摂関政治では、太政官で廟議が行われるが、廟議に天皇は出席しない。
廟議で決められたことが天皇に伝えられ、関白が天皇と共にその内容を見て協議し、異論があれば太政官にそれを伝えて差し戻す。関白でなくて摂政の場合は、摂政の意向により差し戻しがなされる。
天皇は不自由が多いし、摂関政治の進展により公家の身分が固定化されていくが、そこには正式な手続きによる公正さがまだ残っていた。
しかし院政に入ると、厳密には院庁は朝廷ではなく権門のひとつなのである。
権門といっても、最も身分の高い権門である。しかし法的には命令権を持っていない。
どれほど既得権益の意向に左右されようと、太政官と天皇、摂政、関白の間でなされた決定は絶対であり、逆らうことは許されない。しかし院政の上皇や法皇の決定には権威があっても、他の権門には命令に対する潜在的な拒否権がある。
つまり、院政は国家そのものではなく、権門による政治とみなされているのである。
院政は国家ではないから寺社も国家を相手にする恐れを持たないから強訴が頻発し、武士は武力で無言の圧力をかけたり、上皇、法皇を幽閉したりできる。
また平氏も権門であり、権門のひとつである院政が国家の如く振る舞うのを良しとしなかったし、権門による政治を行う以上、寺社という権門を否定できなかった。
藤原頼長の政治なら、摂関政治の一環なのでこうはならなかっただろうが、頼長は今はなく、摂関家の荘園のほとんども、一時的にしろ清盛の管理下に置かれている。
権門勢家の世から、律令的王土思想国家への逆転は起こらず、後白河上皇は、信西の保元新制の方向性を後退させざるを得なかった。

それにしても、後白河法皇のやり方には泥臭さしかないが、それでも政治的なしぶとさは相当のものと言える。
信西も、後白河法皇の徳として「一度決めたことは周囲の制止も聞かず必ずやり遂げる」と言っている。
一時は後白河法皇を暗に武力で威した清盛も、この件では方針を変えて下手に出ざるを得なかった。
この後、清盛は後白河法皇と同じ日に東大寺で受戒するのである。

東大寺から京に戻ると、後白河法皇は、重盛を権中納言に昇進させた。成親の権中納言、検非違使別当への復帰と同日である。
時忠や信範の復帰はまだだが、ひとまずは後白河法皇と平家の関係修復は済ませたことになる。
したたかなのは、時忠の検非違使別当への復帰の目はなくしたことを清盛に認めさせたこと、なお時忠と信範の官位を戻さないことで、後々のカードにしようとしていることである。
(余も日宋貿易に一枚噛ませて貰わねばの)
しかしまもなく、後白河法皇の肝を冷やす事件が起こる。
殿下乗合事件である。

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